文字を持たなかった昭和 続・帰省余話18~お墓参りへ

 昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子さん(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴ってきた。

 今度は先だっての帰省の際のあれこれをテーマとすることにして、印象に残ったことのまとめやエピソードに続き、ミヨ子さんを連れてのお出かけを順に振り返っている。桜島を臨むホテルにチェックイン温泉を引いた大浴場での入浴離島住まいのミヨ子さんのいちばん下の妹・すみちゃんも交えてのディナー、そして島へ戻るすみちゃんとのお別れまで述べた。

 この時点で、2泊3日を予定していたお出かけのちょうど半分だ。すみちゃんが抜けて再び三人になったレンタカーは、桜島を臨む港から鹿児島市内を抜けて薩摩半島を北へ移動する。ミヨ子さん、そして二三四(わたし)の郷里である東シナ海に面した小さな町に向かうのだ。ふるさとは「平成の大合併」で大きな漁港のある隣町のK市と合併し、行政単位は市になっている。

 ここnoteで何回か述べているとおり、実家の建屋は取り壊してもうない。だから「帰る」というのは違うのかもしれないが、やはり「帰る」気分にミヨ子さんも二三四もなっている。実家跡では長男の和明さん(兄)が家庭菜園を営んでいるし、田んぼや畑は人に貸してはいるもののまだある。菩提寺の納骨堂には墓地から遺骨を納め直してあるから、当然かもしれない。

 その納骨堂のほうではなく、もともとあったほうの墓地にもお墓の区画は残っている。実家から徒歩数分と近かったため、ミヨ子さんたちはこちらの墓地にもよくお参りしていた。親戚のお墓がまだ残っているし、なによりミヨ子さんの両親や幼くして亡くなったきょうだいたちが眠るお墓もここにあるのだ。

 二三四たちがいま「墓参り」というと納骨堂を指すことがほとんどだし、お寺の敷地内の納骨堂はそれなりの雰囲気もある。が、個別にお線香を上げることはできないから、お墓参りとしての達成感がいまひとつ乏しい。

 そこでこの日は、ミヨ子さんをまずもとのお墓に連れていってあげることにしていた。脚の弱りかたを見るに、ミヨ子さんが自分の両親(わたしの外祖父母)のお墓をお参りできる機会は、この先ほとんどないだろうと思われたからでもある。

 お墓は、国道3号線を逸れてすぐの小高い丘の上にある。丘のてっぺん附近までは車で行ける。ただ、そこからほんの少しだけ坂を上がらなければならない。2本ある坂の広いほうはゆるやかだが、長い。もう1本の、土手のような短い坂をがんばって登ってもらうつもりでいた。

 車を土手の脇に停め、ミヨ子さんを下ろし杖を手渡す。が、まだ土手の登り口にも行かないのに、ミヨ子さんの脚は竦んだように動かなくなった。
「ちょっと、待って」とミヨ子さん。
「ゆっくりでいいからね。すぐそこだから」

 二三四と、ほとんどドライバー担当の家人がやさしく声をかけて調子を合わそうとする。が、ミヨ子さんの脚がまったく動かない。動かそうとすると膝がぶるぶると震える。
「お母さん、おんぶしようか」
二三四がついに提案し、おんぶの姿勢までもっていったが、ミヨ子さんの腕の力が足りないので肩や首にしがみつくことができない。困った。どうしよう。

※前回の帰省については「帰省余話」127

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