文字を持たなかった昭和322 スイカ栽培(31)スイカの切り方

 昭和中期の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子さん(母)の来し方を中心に、庶民の暮らしぶりを綴っている。

 このところは昭和40年代初に始めたスイカ栽培について述べてきた。苗を植えてからひと月半ほども世話を焼き、手塩にかけて収穫にこぎつける農協に出荷した残りのスイカは、もちろん家でも食べた。もっとも家で食べるのは親戚や知人などにあげた残りのことも多かったが。

 それでも、収穫のはじめの頃のいちばん出来のいいスイカは、まずご先祖さまにお供えした。本来は仏壇なのだろうが、まるごとのスイカを置くスペースはないので、仏間の脇の床の間にデンと据えられた。

 二三四(わたし)たち子供にとって、商品として出荷するに値するスイカを食べられる機会は、スイカ農家の家族とは言えそう多くなかったし、生育途中で摘果したあまり甘くないスイカを度々おやつにあてがわれているので、ちゃんと育った甘いスイカをいただけるのは楽しみだった。

 お供えしたスイカはすぐに食べられるわけではない。数日お供えしたあと、「〇〇なことがあったので今日あたりそろそろ」という感じで――〇〇なこととは、おめでたいとか、喜ばしいといったできごとである――夕食後あたりに二夫(つぎお。父)が長男の和明(兄)に
「床の間のスイカを持って来なさい」
と命じる。

 和明は一抱えもあるスイカを慎重に食卓まで運ぶ。ミヨ子がまな板と包丁を用意する。「入刀」は二夫だ。まずヘタとお尻を薄く切り落としてからスイカを縦に置く。こうすると切るとき安定するという理由以外に、ヘタを落した時点で出来具合がはっきりわかるという理由もあった。ヘタを落としたとき皮が薄く、そこを通して見える果肉が鮮やかな赤だと、スイカを切る前に感嘆の声が上がった。

 まな板の上のスイカに縦に包丁が入り、半分に割れる。二夫たちが慎重に「いちばん出来のいいスイカ」を選んだ結果として、ほとんどの場合ムラのない赤色の果肉が作る円形が二つできる。半球になった身のそれぞれに、さらに縦方向に包丁を入れて、縦に4等分にする。それから横方向、幅2~3センチにカットしていく。

 つまり円周の1/4が底辺の、ほぼ三角形に切り上がるのだった。

 子供だから真中の甘いところを食べさせてもらえる、というわけではない。さっきまで床の間にあったのに、カットしたいちばん甘い部分は仏様へ、ということで皿に載せられ仏壇に供えられた。この役目はたいてい二三四で、そのうちスイカを切るとき二三四は仏様用の皿を用意して待つようになった。

 次に甘い部分は、吉太郎(祖父)やハル(祖母)に差し出された。そして二夫、次に和明。ミヨ子や二三四はそのあとである。順番があとになると、ヘタやお尻側のあまり甘くないけど量は多い部分が回ってくる。それはそれでうれしいことだった。

 もちろん大きなスイカ1個を1回で食べきるわけではない。残りの半分を近所の親戚のうちへ届けることもあるし、とりあえず冷蔵庫に入れておき翌日食べることもあったが、この場合は庫内で場所をとるうえ匂いがつくため、二三四は冷蔵庫に入れたスイカはあまり得意ではなかった。もっとも「匂いがついていやだ」とは、両親の手前死んでも言えなかった。

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