文字を持たなかった昭和320 スイカ栽培(29)プライド、続き

 昭和中期の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子さん(母)の来し方を中心に、庶民の暮らしぶりを綴っている。

 このところは昭和40年代初に始めたスイカ栽培について述べてきた。苗を植えてからひと月半ほども世話を焼き、手塩にかけて収穫にこぎつける。そして農協に出荷するのだが、二夫(つぎお。父)は出来の悪いスイカ(や作物)は出荷したがらなかった、というエピソードを書いた。

 そのため、本来なら多少でも収入の足しになるであろうあまり出来のよくないスイカ(や作物)は、自家用に回るだけでなく、親戚や知人への挨拶品として、もちろん「タダで」贈られた。いや、二級品ぐらいまでを出荷するとすれば、三級品は「タダで」あちこちに配られ、「等外」のものだけが自家用になった、と言ってもよかった。

 受け取ったほうはもちろん喜んだし、二夫もミヨ子も「出来が悪いから」と謙遜していたが、ミヨ子は二三四(わたし)相手にぽつりと
「農協に出せなくても市場に持って行けば少しはお金になるのにね」
と言うことがあった。

 この手の会話は、友だちとの遊びに明け暮れる長男の和明には言ったことはない。そもそも愚痴(のようなもの)は、子供と言えども男相手にこぼすものではなかった。少なくとも、当時の鹿児島の農村では。ミヨ子も、子供の頃に教わったとおりにこれを実践していた。

 言われたときはあまりピンと来なかったその言葉が、家庭や家計にとってどんな意味を持っていたかを、二三四はのちのちになって知ることになるのだが、それはいずれ書く機会を設けよう。

 さらに、対象が社会的地位の高い、言葉を換えれば二夫が体面を保ちたい――場合によっては便宜を図ってもらいたい、かもしれなかった――相手になると、一級品どころか、農協でも高く値のつく特上品をわざわざ取り置いて進呈することもあった。

 ちなみにこの場合の「相手」には、往々にして子供たちの担任の先生も含まれた。

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