文字を持たなかった昭和493 酷使してきた体(6)体質遺伝(目の病気)

昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴っている。

 これからしばらくはミヨ子の病歴や体調の変化などについて記していくことにして、もともとあまり丈夫でなかったことや、農家の嫁としては多少の不調はがまんせざるを得ない背景があったこと、続いて病気などの三つの痕跡として、若いころの紡績工場勤務の際にできた下肢静脈瘤工場で機械に指を挟み指先が少し欠けていること、そして妊娠中の盲腸切除の痕について述べた。

 さて、ミヨ子は働き盛りのころから体質の遺伝について折に触れ心配していた。そのひとつは「目」だった。

 と言うのも、実母のハツノが60代の頃緑内障の手術を受けたからだ。きっかけは、目の鼻側の角にある膜のような部分(ここを何と呼ぶのか調べきれていない)がだんだんと広がり、黒目の近くにまでかかってくるようになったことだ。このままだと目が見えなくなるというので眼科にかかったところ緑内障と言われ、手術を受けたのだった<214>。

 昭和40年代くらいのことととて手術も大変だったが、手術についてはハツノ自身について書く機会に譲る。ともかく、手術を受けたハツノの体験談から、視力を失うことへの不安が常にミヨ子について回るようになった。そしてことあるごとに
「遺伝と言うからね。私も目が悪くなるかもしれない」
と口にした。

 娘の二三四(わたし)にも
「目が悪くなったらは遺伝だからね。具合が悪いときは必ずお医者さんへ行きなさいよ」
と口を酸っぱくして勧めたものだ。まだ青春を謳歌していた二三四は、そんな「遠い将来」のことはピンと来なかったし、自分に何かある頃には医学はもっと発達しているだろうと楽観もしていたが。

 ただ、5人きょうだいであるミヨ子の下の弟は、年をとってからハツノのように「膜」が広がってきて、緑内障という診断だったかはわからないが手術も受けた。手術を受けたにも関わらず晩年は視力が低下し、亡くなる前にほとんど見えなくなっていたようだ(つまり姉のミヨ子よりも先に亡くなっている)。

 ではミヨ子自身はその後どうかと言うと。70代後半くらいから眼科にかかり始め、定期的に通院し点眼薬を処方してもらっている。目を酷使しないよう気をつけている、と本人は言うが、もともと読書家というわけでもないし、テレビを見る時間が長すぎないようにする程度のようだ。点眼薬は手放せないが、93歳という年齢相応とも言える。つまり、恐れていた「遺伝による目の病気」は回避できている状態だ。

 ただし、緑内障は場合によっては遺伝的要素が働くこともあるらしい。その意味では、ミヨ子の「用心」は無駄ではなかったのかもしれない。 

<214>改めて緑内障について検索してみたが、緑内障のメカニズムと上述した「膜」の問題は関係がないようだ。当時は「緑内障」と言われ手術も受け、周囲も長らくそのつもりでいたのだが、ほんとうの病名は違うのかもしれない。

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