文字を持たなかった昭和487 困難な時代(46)補足(仕送りなど)

 昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴っている。

 このところは、昭和50年代前半に取り組んだハウスキュウリに失敗し一家が厳しい生活を送った時期について40数回にわたり書いてきた。家計は八方ふさがりな中、舅(祖父)が苦労して手に入れた田んぼを1枚は手放したこと、夫の二夫(つぎお。父)は土木作業に出て地下石油備蓄基地の建設現場で働いたこと、やがて体調を崩し現場で倒れたこと、病名は直腸がんで手術を受け、入院生活を送ったこと等など。

 退院後の体の状態では土木作業への復帰は無理で、ハウスキュウリの借金の残りは娘の二三四(わたし)が肩代わりしたことも述べた。債務の返済に苦しんだ、10数年にも及ぶこの「困難な時代」については本項で終わりにするが、、終わりにあたってふたつ補足しておく。

 ひとつめは、一家にとってのこの厳しい年月を振り返る中で二三四が抱いた疑問だ。二三四より3つ上、高卒で県内に就職した長男のカズアキは、家にお金を入れなかったのだろうか。また、(自分のことになるが)二三四は大学卒業後仕送りしなかったのだろうか。

 前者のカズアキについては、いずれ結婚するときのために貯金しておけ、ぐらいのことを二夫が言ったのだと思う。なぜなら、息子の結婚のときにまとまった支援をする余裕が自分たちにはなかったからだ。

 後者については、定期的に仕送りをした記憶が二三四にはない。ただ、働きながら大学に通っていた頃から、帰省のたびにいくばくかのお金を「お仏壇にお供えした」。就職してからは、その額はもう少しまとまったものになった。

 もちろん二人とも母の日や父の日にささやかなプレゼントはした。二三四はそれに加えて、両親ともの誕生月で結婚記念月でもある3月にも贈り物をした。カズアキは、汚れる農作業用にと、自分は飽きてしまったがまだ十分に着られる衣類をしばしば実家に持ち込んだ。子供たちはそれぞれの方法で両親を支えた、のだと思う。

 もう1点。二夫が土木作業に携わった――そして健康を損ねる遠因にもなった――石油備蓄基地について書いておきたい。二三四は当時すでに県外へ出ており基地の詳細を知らなかったので、ネットで調べてみた。

 それによれば、正式名称は「串木野国家石油備蓄基地」。1986年4月立地を決定、同年5月建設の推進母体となる国家石油備蓄会社が設立され、1994年5月に完成した(この時点での事業体は石油開発公団だったはずだ)。2004年2月に国の直轄事業となり、エネルギー・金属鉱物資源機構(JOGMEC)が国家石油備蓄の統合管理業務を行うようになる。操業は民間企業がJOGMECより委託を受けて行っている――らしい。

 貯蔵は、地下岩盤内に空洞を設け、地下水圧等により貯蔵原油を封じ込める「水封式地下岩盤タンク方式」。岩盤内を掘削するのだから、作業環境は衛生的ではなく危険が伴ったであろうことは想像に難くない。

「この方式は土地の有効利用、環境保全、安全性、経済性等に優れています。」

 いざというとききっと国民の役に立つ国家のプロジェクトに携われたことは、二夫自身も喜びとするところだっただろう。しかし体、下手すると命と引き換えだった。二三四は、当時二夫から現場について聞かされたときのように、黒部ダムの建設を思い出した。

《参考》
串木野国家石油備蓄基地 : 組織について | 独立行政法人エネルギー・金属鉱物資源機構[JOGMEC]


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