文字を持たなかった昭和 続々・帰省余話6 原体験

 昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子さん(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴ってきた。このところは、先日帰省した際のミヨ子さんの様子をメモ代わりに書いている。

 認知機能の低下は進んでいるが、食欲はあり飲み物もしっかり飲んでいる様子を見ていて、出されたものを残しては気が済まないのでは、と推測した。それで思い出したことがあるので、補足しておきたい。ミヨ子さんが以前、自身の子供時代の思い出として語ってくれたことだ。

 昭和の初め、農村の多くの家庭は裕福と言えなかった。ミヨ子さんの生家もそのひとつだった。

 8人きょうだいのいちばん上(うち3人は幼くして亡くなっている)、ミヨ子さんはみんなのお姉ちゃんとして、子守はもちろん、幼い頃から家の手伝いにも駆り出された。集落のほかの子供たちも、ある程度の年齢になると農作業や家事を手伝うのが当たり前だったから、「そうするもの」と自然に思ったに違いない。「最初の子だから」と特別に大事にされることもなかっただろう。

 食事時や、珍しくお菓子などのいただきものがあると、二人の弟は文字通り食べ物に「唾をつけて」自分の分を確保した。とくにひとつしか年が違わない上の弟はすばしこかった〈245〉。

 ミヨ子さんはもっと小さいきょうだいをおぶい、家事の手伝いをしながら、弟たちの様子を見ているしかなかっただろう。「わたしも食べたいのに」と、まさに指を咥えて。しかし「お姉ちゃん」としてわがままは許されなかった。

 そんな原体験に加え、ひたすら自分を抑制する結婚生活の中で、「お腹いっぱい食べたい」「思うさまに食べてみたい」という願望が心の奥に重く堅く積み重なっていったのではないだろうか、と娘のわたしは推測する。

 前項でも触れたが、十分に年を重ねたミヨ子さんから、神様は抑制機能を少し取り去ってくれた。ミヨ子さんには、思う存分食べられなかった、思うさまに生きられなかった分を、少しだが取り戻してほしいと願う。

〈245〉がまんをするのが当たり前だった子供時代については「六(長女)」で触れた。

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