文字を持たなかった昭和 二百六十九(手作りの乾物―干し菜) 

  •  昭和中期の鹿児島の農村。昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)を中心に庶民の暮らしぶりを書いている。麦味噌の仕込みや(前編中編後編)味噌で作る保存食「豚味噌」について書いたところで、保存食つながりでいろいろな乾物を手作りしていたことを思い出した。

  •  農家では旬になると同じ野菜の収穫が一定期間、大量に続くことをこれまで何回か書いた。二三四(わたし)の場合、そのせいで作物によっては「もう一生分食べた」気がして改めて食べる気がしないことも(その代表はサツマイモである)。

  •  二三四の気持ちはともかく、たくさん穫れた作物は無駄にすることなく使った。冷蔵庫を購入して冷凍するという習慣が始まるまでは、乾物にするのがいちばん簡単な方法だった。

  •  そのひとつが干し菜だ。

  •  使うのは菜っ葉。と言っても、ホウレンソウのようなアクのあるものや柔らかすぎる葉物は適さない。高菜のようなわりとしっかりした菜っ葉を使うことが多かった。

  •  菜っ葉は枯れた葉や根を取り除き、洗ってから筵(むしろ)に広げて干す。早く乾くよう、葉っぱは広げて干した。カラカラに干した菜っぱを適当な量に紐などで束ねて、新聞紙に包むのは姑のハルだった。包んだあとは湿気を避けるために大きなブリキの茶缶に入れた。ハルの生前はお茶も自家製していたので、茶缶がいくつかあったのだ。

  •  そもそも干し菜などの乾物作りはハルが中心になってやっていた。明治生まれのハルにとって、農家が食べ物を買うなど考えられないことで、穫れた作物やその加工品だけでやりくりするのが当然だった。作物が余分に穫れたときは、食べ物が足りないときに備えて保存するのも。

  •  干して乾いた菜っ葉は緑がかった茶色に変わり、ありていに言えば、あまり美味しそうには見えなかった。使うときは水で戻して汁物や煮物に入れたが、干し菜は独特の日向臭さがあって、二三四にはあまりおいしいとは思えなかった。もちろん、「食べたくない」などとは口が裂けても言えなかったが。

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