ひとやすみ 雨の日

 台風2号の影響を受けて本州付近の前線が活発化しているとかで、関東も昨晩から断続的にけっこうな雨が降っている。風も強く、ときおり横殴りの雨の筋が見えた。

 いまは「雨だれ」を感じることのない集合住宅暮しだが、今日は上の階のベランダの縁(?)から雨が滴り落ちていた。それを見ていて、子供の頃――幼稚園に上がる前から小学校へ上がったくらい。概ね昭和40年代前半――の雨の日を思い出した。

 わが家は、働き者の祖父が田畑を買い広げる中で、おそらく大正時代の後半に手に入れた、いまなら古民家と言われる作りのがっしりした木造家屋だった〈153〉。藁葺きだった屋根は、昭和37年に母屋を瓦に葺き替えたと聞く。だからわたしの記憶の中の家は瓦屋根だ。ただ納屋が藁葺きだった姿はぼんやり覚えている。それもいつの間にか瓦屋根になった。

 軒先には雨樋がなかった。近所のほかの家にも――ほとんど農家だった――雨樋はなかったと思う。小学校へ上がって、商業地区に住む友達の家に行くと、軒先にパイプみたなものが付けられていたが、それが雨樋というものだと知るのは、ずっとあとだったはず。

 雨樋がないので、屋根を伝った雨水、つまり雨だれはそのまま軒下に落ちた。雨が落ちた部分は、雨が弱ければ濡れる程度だが、ちょっと強いとたちまち水たまりができた。水たまりは最初円形だが、瓦と瓦は重なっているので、小さな円も重なりあう。そうこうするうち、庭の「上流」から雨水が流れてくる。円形だった水たまりはほどなく小さな流れになって、庭の低い方へ流れていった。

 流れができても雨が止まない限り雨だれは続く。雨の強さによって、雨だれが作る水はねは大きくなったり小さくなったり、早くなったり遅くなったりした。

 それは縁先のほうの眺めで、軒のほうを見上げると、瓦が果てたところから次々と雨だれが落ちてくる。それもまた、早くなったり遅くなったりだが、南国鹿児島に相応しい強い雨のときは「滝のような」という表現がぴったりの、屋根からバケツで水を流したかのような勢いで雨水が流れ落ちてくることもあった。こうなるともはや「雨だれ」ではない。

 そのくらいの強さの雨になると、母に「雨が降り込んでくるから、雨戸を閉めなさい」と促される。そう、わたしは雨戸を開け放った縁側に座って、あるいは寝転んで、雨だれが落ちる様子と、それが流れる様子を、飽きずに眺めていたのだ。

 思いついて、子供用の自分の傘を差し、サンダル履きで軒の下へ下り、ちょっとした川のようになった雨水の中を歩いてみたこともあった。童謡「あめふり」の気分を味わいたかったのだ。雨樋に遮られない雨だれは遠慮なく小さな傘を叩き、服まで濡れた。戸惑っていると、母から今度は叱られる。
「そんなところに裸足で入ると、肥え負けするよ! 早く足を洗っておいで」

 「肥え負け」とは、作物に肥料をやりすぎて逆に育ちが悪くなかったり枯れたりすることを指す鹿児島弁だ。堆肥として十分に熟成させず、直接人糞などの「肥え」を与えた場合も、成分が強すぎて枯れたりすることがある。

 わが家の屋敷の端っこ、雨だれがつくる「川」の上流には、汲み取り式の「外便所」がまだあった。流れている雨水にはし尿も混じっているはずで、足が汚れたりかぶれたりするよ、ということだっただろう。わたしは慌てて土間の奥の台所へ走る。母は、まだ汲み上げ式のポンプだった井戸から水を汲んで、足を洗ってくれた。

 落ちてくる銀色の雨だれ。それが作る水たまり。雨だれが水たまりに落ちて作る水紋。雨の状態によって乱れる水紋。やがて川のように流れていく雨水。雨水は、集落を流れる川に合流するのだろうか。いつか海にまで流れていくのだろうか。次々に落ちては水たまりで合体する雨だれを眺めながら、いろいろなことをいつまでも考えた。

 雨の日はできることが少ない。家にあったゲームはせいぜい50音のカルタくらいで、おもちゃもあまり持ってなかった。だいたい、大人は子供相手に遊んではくれない。頭の中で広がる想像は無限だった。わたしの妄想癖は、こんな環境で培われたのかもしれない。
(noteに綴っているできごとや思い出は、記憶違いはあっても妄想ではありません。念のため)

〈153〉祖父・吉太郎の働き者ぶりについては「文字を持たなかった昭和 二十八(縁談先)」で若干、実家の建物については「同 八十一(屋敷)」でそれぞれ触れている。

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