文字を持たなかった昭和 八十三(徴候)

 作者都合により、時間の経過をいったん無視する。

 昭和36(1961)年の夏、田んぼもミカン山もこれからどんどん忙しくなる季節。

 前年の2月に生まれた長男・和明はようやく乳離れしてくれたが、まだまだ手がかかった。おぶって畑や田んぼに出るものの、おぶったままでは作業しづらい。畑では近くの木の幹と和明の体を、舅の吉太郎が藁で綯(な)った縄でつないでおいた。まるで犬である。いまなら幼児虐待と思われかねない。

 しかし歩けるようになったばかりの幼児を放っておくほうがよほど危険だった。和明は縄の長さの範囲で動き回っていた。農作業には家族の誰かと、あるいは家族総出で出かけることがほとんどだったので、作業しながらも誰かしら子供の様子に目を配ることができた。

 そんな頃、ミヨ子はまた体の変調を感じていた。

 無理がたたって死産に至ったいちばん上の子、それに懲りて生まれるまで慎重に対応した長男に続いて、3回目である。「もしかして」と思いながら病院に行くと、案の定「おめでた」を告げられた。長男を産んでからそう経っていないこともあり今度も大丈夫だという気持ちと、いやいややはり慎重にせねば、という気持ちがせめぎ合った。

 やがてお腹が目立つようになっても、季節ごとの仕事は遠慮なくやってきた。重いものを持たない、疲れすぎない、などに気をつけながら家事と農作業を続けた。幸い夫の二夫(つぎお)もそれとなく気を配ってくれた。

 なんとか秋の収穫期を乗り越え、餅つきをして新しい年を迎えた。明治生まれの吉太郎たちは数えで年を数える習慣だったので、正月が来て「初孫が3つになった」と喜んだ。実際には2月に2歳の誕生日を迎えたのであるが。

 春の訪れとともに、ミヨ子のお腹はますます大きくなってきた。月遅れの桃の節句のため菱餅をついた。やがて若葉が鮮やかになり、田植えが始まった。


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