文字を持たなかった昭和342 梅の実のある風景(3)梅干しの食べ方

 昭和中期の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を中心に、庶民の暮らしぶりを綴っている。

 最近では、保存食品として毎年手作りしていた梅干しをテーマに書いてきた(「梅干し(1)梅の木(11)保存、おまけ」)。ついでに梅の実にまつわるエピソードをしばらく綴ることにして、日の丸弁当砂糖梅について述べた。

 今回は、梅干しの食べ方である。

 と言ってもミヨ子たちにとって梅干しと言えば、日の丸弁当の中の梅干しのように、漬け物感覚でごはんのお供ととして食べるのが一番だった。その次はお茶請けだろうか。「砂糖梅」のように砂糖をまぶすのはまだ上等で、近所どうしなら甕から上げただけの梅干しがお茶請けということもままあった。

 それ以外の食べ方について考えてみるが、あまり思い浮かばない。「梅干しはごはんに添えるか、せいぜいお茶請けで食べるもの」という伝統的な(?)観念が強固で、食材として活用することは考えていなかったのかもしれない。

 とは言え、梅干しはたくさん作っていつも豊富にあったから、二三四(わたし)が長じてからは、梅干しを料理に使うことがないわけではなかった。

 代表的なのは、ダイコンの梅和え。薄い銀杏切りにしたダイコンを、叩いた梅肉で和えたものだ。簡単な料理だが、薄紫に染まったダイコンの和え物を初めて食卓に出したとき、二夫(つぎお。父)が
「(梅干しで)こんなしゃれたものができるのか」
と相好を崩したことを覚えている。農作業に忙しいミヨ子に代わって、晩ご飯の支度をするようになった高校生の頃だったと思う。もともと料理は――家事全般――わりと好きだったから、新聞や家庭雑誌の料理欄にはよく目を通していた。

 鰯の煮つけに梅干しを入れて煮つけたこともあった。ミヨ子は青魚アレルギーがあることもあり〈162〉めったに鰯は使わなかったし、買っても焼くことが多かった。鰯というより梅干しを活用できるメニューということで梅干しを入れて醤油で煮つける献立を披露したのは、社会人になって自炊を初めて以降の帰省の機会だったと思う。これにも二夫は目を細めたが、ミヨ子は鰯を食べられないので、別の料理も作ったはずだ。

 古くなったお米を炊くのに梅干しを一粒入れて香りと味をつける、というのも二三四がやった。ほかにも、「メニューのヒント」「梅干しを利用した献立」のような記事で見かけた料理をいくつか作ってみたことはあった。

 どれもこれも、その時は「おいしい」と食べてくれるが(ミヨ子は青魚以外)、「わが家の味」として定着したものはなかったように思う。

 つまるところ梅干しの定位置は、ごはんのお供でありお茶請けだった、ということだろう。

〈162〉青魚アレルギーについては「百二十六(魚屋)」で触れた。経緯についてのエピソードは改めて書きたい。

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