文字を持たなかった昭和 百二十六(魚屋)

 昭和30~40年代、母ミヨ子たちがちょっとした買い物をすると言えば、自宅から歩いて10分ほどの小さな食料品店兼雑貨店「マッちゃんち」だったことは書いた。

 もちろん「マッちゃんち」でも、国道を隔て「マッちゃんち」のはす向かいにあったもう1軒の同じような店でも、取り扱っていない商品が当然あった。代表的なのが鮮魚である。

 魚屋は、もう1軒の店のすぐ近くにあった。ミヨ子たちとほぼ同年代のDさんというご夫婦が営む店だった。ふだんは基本的に自給自足、せいぜい「マッちゃんち」で買えるもの程度を食卓に上げていたミヨ子だったが、ちょっと奮発したいときはDさんの魚屋まで足を運んだ。

 魚はたいてい一尾まるごと買った。そのほうがお得だし、切り身より鮮度が保たれている。もっとも当時切り身にした状態で売られている魚はほとんどなかった。

 刺身にしてほしいときだけは、Dさんの奥さんに頼んで切ってもらった。素人が切れない包丁で刺身を引くのと違い、Dさんの奥さんは長い刺身包丁をすいすいと動かして、表面が滑らかで厚さが揃った刺身を次々に切り出した。切られた刺身はよい香りのする薄い経木の上に並べられた。最後に、あらかじめ大量に練って、お椀の中に入れ伏せて置いてあったワサビ(とうぜん粉ワサビだ)を、お椀から適量指で掬って刺身の横に置く。そして経木の両端を畳んでかぶせ、新聞紙でくるんで渡してくれるのだった。

 ミヨ子が下の子(つまりわたし)を魚屋へ連れていくと、ほとんど目の高さの調理台で刺身がするすると現れる様子に、子供の目がくぎ付けになっていた。

 刺身を買うのはお客さんのときか、舅の吉太郎や夫の二夫(つぎお)が特別大変な仕事をした際の慰労のためだったから、子供たちの口にはほとんど入らなかった。せいぜい、男たちに十分供したたあとの残りを一皿に盛り付け、分けて食べる程度だった。

 ミヨ子はもともとサバやイワシなどの青い魚にアレルギーがあることもあり〈102〉、ごく一部の魚介を除き刺身はほとんど食べなかった。

〈102〉ミヨ子が魚アレルギーになったいきさつは改めて書くつもりだ。

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