文字を持たなかった昭和394 介護(13) 姑⑦おむつ

 昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴っている。

 最近はミヨ子が嫁として仕え最期を看取った舅と姑の介護の様子を、「介護」というタイトルで書きつつある。 昭和40~50年代のできごとである。介護という概念すらなかった当時の状況()に始まり、舅・吉太郎(祖父)のお世話()に続いて、姑・ハル(祖母)について書いている。 ぼんやりすることが増えたこと、一人であてもなく出かける(ように見えるが、本人にはちゃんと意図がある)「徘徊」の様子など。小用の粗相も始まり、その頻度も上がりつつあった

「そろそろおむつを当ててもらったほうがいいんじゃないでしょうか」
 ハルの粗相のあとを拭いて回ることが続いたある日、ミヨ子は控えめに夫の二夫(つぎお。父)に持ちかけた。当時としては極めて珍しい一人っ子で、自然母親っ子でもあった二夫は、そうしろとも、するなとも言わなかったが、気分がよいようには見えなかった。

「おじいさん(すでに他界している舅)の着物もまだだいぶあるし、新しく布を買ってこしらえるわけではないので」
経済的な心配だけでも取り除いておこうと、ミヨ子はもう少し踏み込んだ。
「お前が好きなようにしなさい。おむつを換えるのもお前なんだから」

 積極的な同意とは言えなかったが、了解はとれた。二夫は積極的に同意したくはなかったはずだ。自分の母親がおむつを当てるなんて…。しかし、日中家の中にハル以外誰もいないことがほとんどなことと、最近の「粗相」具合を考えれば、おむつを当てておいたほうがよさそうなことは明らかだった。

 そもそも「おむつを換えるのもお前」と念押しするまでもなく、家の中のことで二夫が手伝うことはほぼなかった。せいぜい力仕事と風呂焚き、広い庭の掃除ぐらいで、もちろん毎日ではない。まして、自分の親とはいえお年寄りのお世話に加わるなど、あり得なかった。

 二夫の名誉のために付け加えるならば、当時の中年以上の男性、ことに農村では、男性の家事への関りぐあいはこれが標準と言えた。あるいは都市部でも、多くの家庭がこうだったかもしれない。

 ミヨ子は農作業と家事の合間を見つけて、早速おむつを縫いにかかった。「舅②」でも触れたとおり、当時は大人用の紙おむつなど売っていない。着古した舅・吉太郎の着物をほどいて「ただの布」にする。それから、長さや幅を考えて幅広の長い布に断ち直す。それを輪っかに縫うとおむつができあがるのだ。

 二三四(わたし)は作業の一部を手伝いながら、赤ちゃんのおむつと比べて「ずいぶん大きいものだなあ。それに、ゴワゴワだし」と思った。小さな集落でも赤ちゃんのいる家は常時1軒か2軒はあり、家に赤ちゃんがいなくても、洗ったおむつがタコ足の物干に干してある風景は日常のものだった。

 そうやって手縫いしたおむつを、農作業などで出かける前にミヨ子はハルの下半身に当ててやり、腰ひもで結わえ付けた。
「おばあちゃん、このままおしっこしていいですからね」
と声をかけながら。


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