文字を持たなかった昭和321 スイカ栽培(30)表彰
昭和中期の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子さん(母)の来し方を中心に、庶民の暮らしぶりを綴っている。
このところは昭和40年代初に始めたスイカ栽培について述べてきた。苗を植えてからひと月半ほども世話を焼き、手塩にかけて収穫にこぎつける。そして農協に出荷するのだが、二夫(つぎお。父)は出来の悪いスイカ(や作物)は出荷したがらず、気前よく親戚や知人などにあげていた。
結果的にかなり「厳選」したスイカを出荷していたということもあるのだろう、二夫たち――つまり二三四(わたし)の家の――スイカは地元の農協でも評判がよかった。
それぞれの農家が栽培したスイカの品質については毎年品評会が行われた。どのくらいの数の農家が出品するのか、子供だった二三四はよく知らなかったし、子供相手に詳しく教えてくれる大人もいなかったが、最終的には県のレベルでの評価になるらしいことはわかった。
なぜならある年、県知事名が書かれた表彰状が賞品とともに届いたからだ。
県知事の名前は、テレビ(ほぼNHKだが)で県内のニュースを放送するときに伝えることがあったし、珍しい読み方の漢字一文字の名前は印象的だったから、小学生の二三四も知っていた。いまふうに言えば、子供にとって「超」のつく有名人の名前が書かれた大きな表彰状に、二三四は秘かに興奮すると同時に、父親への尊敬の気持ちを深くした。
表彰状は額に入れて客間の鴨居に飾られた。外から帰ったとき、朝晩表の間の仏壇にお参りするのに客間を通るとき、そして手持無沙汰な雨の日に寝転がって鴨居を見上げるとき、表彰状はときに燦然と、ときにひっそりとそこにあった。
「父ちゃんはスイカつくりの名人なんだなー」
と、そのたびに思ったし、たしかにその通りではあるのだが、表彰状に一人だけ書かれた名前を支えているミヨ子の貢献について考えが及ばなかったことに、この項を書くまで気が付かなかった。ミヨ子だけではない。スイカ栽培は――もちろんほかの作物も――、家族が大なり小なり力を合わせて何か月も続けてきたことだった。
代表者として二夫が表彰されたと解釈できなくもないが、今となってはおいしいところだけ持って行かれたような気がしなくもない。
ミヨ子はいったいどう思っていたのだろう。夫とは一心同体だからと純粋に喜べたのだろうか。ミヨ子のあの頃の気持ちはもうたしかめようがない。
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