文字を持たなかった昭和 番外 淑女の鹿児島弁(前編、役割語)

 昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴っている。文中でときどき鹿児島弁に触れることがあるし、「ミヨ子さん語録」として、ミヨ子さんが口にしていた鹿児島弁の単語や表現などを再現することもある。

 たまに読んだ本の感想を書いてもおり、前々項前項では『日本語が消滅する』を取り上げ、鹿児島弁が「消滅」することへの不安を述べた。

 わたしがnoteに庶民の暮らしを綴っているのは、その地域、その時代を生きた人々のことを残しておきたいからだが、そこには使われていたことばを残しておきたい気持ちも含まれる。

 「役割語」という考え方がある。「俺」「僕」と語るのは(たいてい)男性で、「あら、雨かしら」と話すのはまず女性というふうに、話者自身の役割を想起させる特定の言葉遣いという概念だ。日本でも昨今は性差も年齢差も薄まりつつあるから、この概念は薄れていくかもしれないが、日本語はいまのところまだ「役割」で言い方を変える、逆に言い方で役割を推測する傾向はまだまだ強いと思われる。

 鹿児島弁は役割語の傾向が強い方言だ(ほかの地方の方言も同じかもしれないが、わたしには分析できないのでここでは明言を避ける)。つまり、性差、年齢差、職業差、社会的身分差(語弊があるが便宜上使います)等など。

 男性が話す鹿児島弁は力強いし、女性のそれは柔らかい。いまはなくなったものの士族階級のことばと庶民、ことに農民など労働階級のことばはまったく違ったという。生活において必要なことばが違うのだから、当たり前と言えば当たり前だ。

 明治初期のものだったと思うが、元士族階級の女性が鹿児島弁で話した録音を聞いたことがあるが、ていねいな中にも凛としたニュアンスがあり、なるほどこれが武家の女性か、と納得した。

 ミヨ子さんの嫁ぎ先(わたしの実家)は農村地帯にあり、周囲もほとんどが農家だった。話している言葉も農民が代々受け継いできたそれである。もちろん時代の変遷により新しい言葉も入ってきてはいたが、昭和中期ぐらいは明治生まれのお年寄りもまだたくさんいたし、テレビなどのメディアの影響もいまほど顕著ではなかったから、言語環境という意味では「地のことば」の影響のほうが強く、江戸時代末期のことば(表現)もまだまだ残っていたと思われる。

 そんな農村で「淑女」?
  (後編へ続く)

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