文字を持たなかった昭和 番外 淑女の鹿児島弁(後編、サトさん)

 (前編より続く)
 わたしが淑女と呼びたい人は、おなじ集落のサトおばさんだ。サトさんは昭和40年代(わたしの幼稚園から小学時代)で50代だっただろうか。わが家の祖父母よりはひと世代下で、わが両親より10歳くらい上という感じだった。サトさんの子供たちはわたしや兄よりは上だったが、10歳もは離れていなかったので、もしかすると両親ともそう離れていなかったかもしれない。

 集落にはわが家と同じ苗字の家が何軒もあった。一族の多くが同じ集落に住んでいたからで、サトさんはその「本家」の奥さんだった。本家の奥さんと聞けば、押し出しも気も強い、怖いおばさんをイメージしてしまいそうだが、サトさんはまったくそんなことはなかった。

 サトさんは小柄で、中年の頃から少し背中が曲がっていたから、ほかの農家のお嫁さんと同じように、若い頃から重いものをずいぶん担いできたのだろうと思う。本家といえども嫁への「扱い」は同じだ。いや、むしろ本家である分要求は厳しかったかもしれない。

 サトさんは誰に会っても、相手が子供でもおだやかに挨拶した。曲がった背中を腰のあたりで支えるように伸ばして。発することばは、ていねいでやわらかかった。自分の母親や祖母はもちろん、集落や地域の女性の、誰が話すことばよりもやさしかった。口調がやわらかいだけでなく、ときどきまったく聞いたことのない単語を使った。子供心に「サトおばさんは、どこか身分の違うところからお嫁に来たんだろうか」と思ったものだ。子供の頃のことでひとつひとつの単語を覚えていないのが残念だ。

 じっさい、農村に限らず昔の結婚相手は親どうしが取り決めたもので、農家といえどもある程度の規模の家ならば、「身分」が上の家の何番目かの娘さんが嫁入りすることはあり得た。初婚先で子供に恵まれず、いわゆる「出戻った」女性なら、格下の家の男性と再婚する(させられる)こともままあった。そこには、女性ばかりでなく男性も、結婚する当事者としての意思は介在しなかった。まあ当然である。結婚が個人の意思に基づくものと規定されたのは、戦後なのだから。

 話が逸れた。

 だからわたしは、サトさんは旧士族の出か、どこかの商家のお嬢さんなのではないかと想像している。生家では立ち居振る舞いやことば使いを躾けられ、花嫁修業らしいこともしたが、縁あって農村地帯の小さな集落の、いちおう本家と呼ばれるところに嫁がされた――と。

 でなければ、サトさんの雰囲気、なによりことば使いの違いの理由が説明できない。あの時期、あの「辺り」で、あんな上品なおばさんはいなかったのだから。わたしの母ミヨ子さんは控えめで、話しかたもやさしかったが、個々の単語はやはり「地のことば」を使っていて、それはときに品がなかった。ほかのお母さんやおばさんには、がさつと言っていいくらいの人もたくさんいた。個々人の資質の問題ではなく、教育を受ける機会があまりなくて働くばかり、人間関係も限られる生活ではそうなっても不思議ではない。

 サトさんが亡くなってもう長いこと経つ。本家と言っても盆正月に集まる習慣はなかったから、サトさんについては詳しく知らないままだ。ことばの違いがそのまま出自や育ちの違いだった時代、淑女の鹿児島弁を使っていたサトさんのことを、もう少し知りたいとときどき考える。

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