ひとやすみ『日本語が消滅する』(後編)
(前編より続く)
逆に、標準語と方言を使い分けられる子は、クラスはもちろん学校全体でも一目置かれる。ついでに先生たちからの評価も高い。ことに、テレビやラジオのアナウンサーのような東京発の標準語のイントネーションを正確に再現できる子は。朗読のときは東京の標準語での読み方が「推奨」されたが、多くの子供はふだんのイントネーションに引きずられてしまう。わたしはわりと「きちんと」読めたので朗読のお手本として指名されることがあり、内心鼻高々だった。
そのうちわたしは、鹿児島弁っぽいものを恥ずかしいと感じるようになった。当時はまだなく、あとから流行った言葉で表現すれば「イモ」「ダサい」という感覚だろうか(鹿児島だからイモなのは当たり前か)。家庭訪問で親が先生と話すとき、「標準語」でがんばってくれるとうれしかったが、ちらっと地のことばが出ると恥ずかしくなったものだ。
教育におけるそんな「環境整備」は、アイヌや沖縄ほど強烈ではなくても、子供たちの自尊心、郷土愛を殺ぎ、アイデンティティの確立に大なり小なり影響を与えたはずだ。
それでいて、中学生くらいになると鹿児島弁丸出しの先生のほうに人気が集まり、高校に入るとそれは決定的だった。ふだんから標準語を「強制」されることへの潜在的なアンチテーゼが、子供たち、少年少女たちの心の中に形成されたのかもしれない。
いったい、あの頃のような教育現場における中央集権強化とでもいうべき指導は、どこから生まれたのだろう。鹿児島県だけだったとも思えない。ただ、鹿児島弁の「扱いにくさ」から、指導が強化されたことは考えられる。明治維新であまたの人材を輩出した鹿児島は、以降の中央集権化に教育界(に限らずず各界)がずっと協力してきた可能性もある。明治維新時の活躍ぶりから熱血のイメージがある鹿児島だが、住んでいる人たち――下じも――は素直で、とくに上からの指示には従順だ。一致団結しやすいとも言えて、その点も一律的な教育には向いていただろう。
いま「方言はかっこいい」らしい。個性的で、おもしろいという。関西弁はとうにメジャーを確立している。栃木弁のU字工事、青森弁の王林ちゃんなど、方言を武器に中央(!)で活躍する人も多い。だがそれも、全国規模である程度の意思疎通というか「なんとなくわかる」と思われることが前提だろう。だからどうしても、方言といえども標準語に妥協する部分が生まれてしまう。本気で方言を使えば、土地の人以外はシャットダウンされる。博多弁などの九州弁はわりと受けても、鹿児島弁となるとなかなか全国で認知されないのも、言語人口の少なさ、露出の少なさに関係があるのではないか。
本題に戻る。わたしの懸念は、日本語の前に鹿児島弁が消滅してしまわないか、ということだ。すでに、若い人は本来の鹿児島弁をあまり使わなくなり(相変わらずイントネーションは鹿児島弁、という人は多い)、子供たちを対象に、寸劇などを通して鹿児島弁に親しんでもらうという活動も有志によって展開されている。そのもようを動画などで見ると、本来の鹿児島弁とはやはり異なる。
言語は生活であり、文化であり、歴史でもある。そこで生まれ育った個人の精神世界を育み形作るものだ。その地方、地域に特有の文化が薄まれば、特有の言葉も不要になる。文化や経済の東京一極集中、東京からの情報の拡散がそれに拍車をかける。
日本語の消滅なんて考えたくもないしもちろん望まない。だが、わたしたちは身近な言葉を、思いのほか安易に捨て去ってきているかもしれない。そこから考えれば、言語が消滅することの恐ろしさ、無残さが少しは理解できそうだ。
《参考》
『日本語が消滅する』(山口仲美著 幻冬舎文庫 2023年6月30日第1刷)
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