見出し画像

自由がうつ病の原因

またしてもコテンラジオからの引用で恐縮だが、資本主義の歴史についてのシリーズで、コテン代表の深井氏がこんなことを言っていた。

資本主義登場以前には、うつ病も統合失調症もなかったと書いた本があったと。

資本主義の特徴は、それ以前の封建制度などと比べて、自由や権利があるところなのだが、それが原因で、うつ病などが増えたという説があるということだ。

その説を受けて、自由がなければアイデンティティの喪失もないし、自由があるために選択が必要になり、いい選択と、悪い選択というものが出てくる。

それが悩みの原因になるという話もされていた。

さて、ここからは僕の考察になる。

昔からよく聞く話だが、妻が夫に「今日何食べたい?」と聞くと、夫が「なんでもいいよ」と答えて、妻がイラっとするということが、日常生活の中にある。

この二人の心理を推測すると、今日何を食べるか選択することを、相手に投げ合っている構図が見えてくる。

二人とも選択のボールを受けることが、ちょっとしたストレスなのである。

スーパーに行けば、なんでもそろっていて、なんでも作れる一方、選択肢が多すぎて、選べないのである。

妻は考えるのがストレスだし、自分が決めたものが相手に気に入られない可能性もある。

夫は出てきたものを食べるだけのほうが楽で、気に入らなければ文句も言えるのである。

逆に何かいうと「そんな手間のかかるもの」と却下されてしまう可能性もある。

その表れが、上記の会話なのである。

最近は、妻が食事を作るのが当たり前で、ましてや夫がそれに文句を言うなんて、言語道断だとSNSで炎上するので、これはまあ、少し昔の話としておいたほうが無難だろう。

そもそも食事をどっちが作るかというのも、資本主義社会においては自由であり、権利は平等なのである。

過去の投稿でも、何度も触れているが、男女の恋愛や結婚についても、現代は完全に自由である。

僕の親の世代であれば(団塊の世代ぐらい)、誰もが30才ぐらいまでに結婚をしなければならなかった。

適齢期になれば親や親戚や会社の上司などが、お見合い相手を次々と探してきた。

完全な自由意思で結婚したという人は、あまり多くないだろう。

自由意思に、とりわけ気分や感情に従っていると、結婚は難しい。

それは、当時と比べての現代の未婚率の低下や、晩婚化を見ればあきらかであろう。

女性は男性からのアプローチを断るときに「生理的に受け付けない」という感覚を、避けがたい理由として使うことがある。

例えばDNA的に合わないことを察知するセンサーが働いているというような、生物学的な原因があるように考えているようだ。

しかし、その感覚が本当に生物学的に正しいのかどうかは、不明なところがある。

当然ながら個人差もあるだろう。

もしかすると、昔は生理的に受け付けない人と、結婚させられたこともあったかもしれない。

親の世代や、それより上の世代だと、最初は夫のことがあまり好きではなかったが、結婚してからだんだん好きになったという話は、ちょいちょい聞く。

異性と付き合うことも大きな決断だし、結婚することも大きな決断である。

こちらは男に原因があることが多いと思われるが、長年付き合って、結婚するきっかけがなく、結局別れてしまうカップルも多い。

そして、その間に婚期を逃してしまい、どちらかが死ぬほどの後悔をしているという話もよく聞く。

また、昔は離婚は、世間体などもあって、そう簡単に出来るものではなかったが、最近は3組に1組が離婚する。

離婚した夫婦でも、もしかすると、一時的に険悪になる時期を過ぎれば、よりよい関係の夫婦になったかもしれない。

昔は会社に入ったら、定年になるまで勤めるのが一般的であった。

もちろん強制ではないが、転職は不利であり、勤め続けるほうが給料もよくなるというメリットもあった。

ところが、今は退社も転職も自由だ。

さらにいうと、フリーランスや、個人事業主、起業などの選択肢もある。

昔ほど「脱サラ」のハードルは高くない、というか少なくとも世間の感覚的には高くないと思われている。

すると、会社に入ってもすぐにやめてしまう人が、だんだんと増えてくる。

どこの会社でも、多少は自分と合わないところがあると思うが、やめる選択が容易だと、ちょっとした原因でもやめてしまう。

そしてありもしない、完全に自分に合った会社を探し求めることになったりする。

また、それ以外の選択肢としてあるように見えるフリーランスや、起業は、会社員よりも厳しい世界である。

最近は、会社員と起業を行ったり来たりする人もいるようである。

住むところだって、田舎の実家に住み続ける人は減ってきており、どこにでも住める。

昔だったら、長男が実家の跡をついで、次男や女の子は反対に実家の跡を継ぐことは出来なかった。

つまり、選択肢はなかった。

最近の若者の悩みは「やりたい仕事が見つからない」というものだ。

僕が若い時でさえ、このような悩みはなかったように思う。

職業の選択にあたっては、自分の学歴で、なるべく安定して、高収入の職業はなにかと考えていた。

これはある意味、機械的に考えられることである。

やりたい仕事というのは、出来るにこしたことはないが、条件としては二の次だった。

なお、これらの例は、昔のことであっても、資本主義社会のもとで起こっていることではある。

もちろん、江戸時代の話ではない。

ただ、時代や社会の在り方は一気にではなく、少しずつ変わっていく。

封建制度や、家父長制の名残が、上記の「昔の」例にはあると想定している。

現代では、さまざまな選択の自由があることで、かえって悩みや後悔が生じる。

何を選ぶか、なにかをするかしないかと延々悩んでいると、だんだんと気分が沈んでくる。

それがストレスとなり、うつ病などの原因になるということだろう。

むしろ、あきらめのようなものが、心の健康には有利であるという側面もあるのかもしれない。

たとえば、生まれた家の地位であったり、生まれた地域であったり、生まれた性別や、生まれた順番であったり、それによって選択肢がせばめられたり、なかったりしたほうが、悩みの原因は少ないということもあるのだろうか。

ただし、深井氏はこの説が正しいかどうかはわからないと言っているので、あくまで仮説とすべきではある。

もちろん僕自身は、自由が好きだし、昔より今のほうがいいと思っていることを、最後に断っておく。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?