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「東京恋物語」第九話:落日への予感

エスプリグループ総代表である美月との会話で、一週間後にはホストを辞める話しになった翌朝九時過ぎ、祐太郎と奈々子は、ふたり向き合うように狭いセミダブルベッドの中で熟睡していた。
「ブーブーブー」
携帯電話の着信を告げるバイブレーション音で目を覚ました祐太郎は、奈々子を気遣って、ゆっくりベッドから起き上るとローテーブルに手を延ばした。
携帯電話の着信表示は、メトロキャブの相談役である長谷川となっている。
「はい、祐太郎です。五郎さん、何かありました?」
祐太郎は、寝起きと悟られないように出来るだけしっかりした声で言った。「坊っちゃん、この休職中に何してるんや?昨日の晩に、歌舞伎町を走ってたホストクラブの宣伝トラック、そこに坊っちゃんの大きな顔があって、びっくりしたでぇ」、
祐太郎は、一瞬言葉を失った。恐れていたことが、的中したからである。
「その件ですが、会ってお話しします」
祐太郎はそう言って、三時間後に会社で会う約束をした後、電話を切った。
長谷川は、この時点で来客対応のため席を外している社長であり祐太郎の父親でもある正一郎には、何もまだ話していないと言っていた。つまり、まずは長谷川自身が祐太郎と面会し、状況を把握した上で正一郎に告げるつもりであるとの事であった。
「どうかしたの?誰から?」
奈々子が目を覚ましたらしく、隣から聞いてきた。
「ああ、五郎さんからだよ。ホストクラブで働いてるのがバレちゃった」
「じゃあ、その説明に?」
「うん、これから会うのは五郎さんだけだけどね。社長は別件の会議が入ってるらしいから」
祐太郎の言葉に、奈々子は少し考えるように間をおいて話し始めた。
「この件だけど、私が祐くんにお願いしてホストになってもらった事だし・・・、私も一緒に行くわ」
「えっ」
「その後、一緒に遅いランチでもしない?今日はわたし、何にも予定入ってないから」
そんな奈々子の笑顔を見た祐太郎は、敢えて否定することはできなかった。
そして、しばらくすると、化粧を終えた奈々子が、バスルームから出てきた。
「女優に変身したね」
いつものポニーテールを解き、スレンダーな体に花柄のワンピースと、ピンク色のストールを纏った奈々子の姿を見た祐太郎は、思わずそうつぶやいた。
「いつもジャージを着てたから、こんなにお洒落するの、久しぶりだわ」
「たぶん、会社の連中みんなびっくりするよ。何だか困ったような、嬉しいような、複雑な心境だね」
「まあ一応、ハットを被って、マスクもするけどね」
「じゃ、そろそろ・・・」
スーツ姿の祐太郎は、そう言って、奈々子の準備が完了したことを確認すると、玄関のドアを開けた。そして、ふたりは手を繋ぎ、並んで歩きながら西早稲田のメトロキャブへと向かった。
六月ではあるが、梅雨の中休みで、青く晴れ渡った空の下、心地よい風が吹いている。
大久保界隈の雰囲気と少し違って見えるふたりの姿は、通り過ぎる人々の目を惹きつけずにはいられなかった。その姿はまるで、ここでドラマロケの撮影をしているかのように見えたからである。
予想通り、会社のパーキングビル入口にいる守衛スタッフや、階段を登りながらすれ違う社員たちは、みな一様に振り返って、ふたりを見つめていた。
本社パーキングビルの四階にまで階段を登ったふたりは、駐車スペースを横目に見ながら、本社事務室入口に向かった。
「あれっ、あの白いベンツ・・・」
すでにマスクを外していた奈々子が、ふと入口手前で立ち止まって、つぶやいた。
祐太郎も、奈々子のつぶやきを聞いて、白いベンツへ視線を向けた。
「あの車は、確か・・・」
「そう、宮野が使っているベンツよ」
奈々子の言葉に祐太郎は、青山の銀杏並木通りでスピンターンをした時や、バスタ新宿までカーチェイスをした時のことを思い出していた。
「あの時の・・・」
ふたりが事務所の入口前で立ち止まっていると、突然、事務所入口のドアが開いた。
出てきたのは、無線室の室長と経営企画室の室長、そして社長の正一郎である。その後、続いて現れたのは、濃紺に白いストライプ入りのスリムスーツを着こなした男性、そしてその部下と思われる二名の男性だった。
「それでは、小嶋社長。今日はお忙しい中、お時間をいただいて有難うございました。今後の詳細は、また近いうちに連絡申し上げます。ではここで、失礼致します」
「こちらこそ。宮野社長のユニークな提案は、とても興味深かった。新しいアプリのプロトタイプ、楽しみにしていますよ」
正一郎の言葉に、宮野と部下の二名は深くお辞儀をして、白いベンツへと乗り込んだ。そして最後に運転席のドアを開けて乗り込もうとしていた男性に、祐太郎は目が釘付けになった。なぜなら、その人物こそ、祐太郎が二度もカーチェイスをした運転手だったからである。そして、後部座席に座る宮野は、奈々子と祐太郎の姿を、鋭い目つきでじっと見つめていた。
やがて、エンジンを始動させた白いベンツは、ゆっくりと動きはじめた。
正一郎と本社スタッフ、そして祐太郎と奈々子は入口前に立ったまま、白いベンツがメトロキャブ本社パーキングビルの反対側下りスロープへと右折して、その姿が見えなくなるまで見送っていた。
「祐太郎、どうしてここに?あと、こちらの方は・・・」
正一郎が、祐太郎のブラウンに染め、ゆるふわパーマをかけた頭髪を、じろじろと見ながら言った。
「あっ、あの・・・、それは・・・」
慌てた口調でそう言いながらガラス張りの入口ドアに目を向けた祐太郎は、そのドア越しで頭を掻きながら、うろたえた様子で立っている長谷川の姿を見つけた。
「ああ、社長。この二人は、私が呼んだんじゃよ」
ドアを開けて出てきた長谷川は、そう言うと、休職中の様子を個人的に聞きたいと思い、祐太郎を会社に呼んだところ、正一郎と宮野の会議が、予定時間を大幅に早まって終了したことから、想定外でお互いに出くわすことになってしまったと説明した。
「なるほど。そして、こちらの方は・・・」
正一郎が聞いた。
「先日お話しした、新藤奈々子さんです」
祐太郎は、入口前に立ったままで、正一郎と長谷川に奈々子を紹介した。その周りには、騒ぎを察知した本社スタッフたちが、事務所の中からドアのガラス越しに見つめている。
「はじめまして。祐太郎の父親で、小嶋正一郎と申します」
「新藤奈々子です。はじめまして」
奈々子がそう言ったところで、長谷川は、祐太郎と奈々子、そして正一郎に大会議室へ入るよう促して、入口ドアを開けた。
事務所の中では、大会議室への通路を歩く女優の新藤奈々子を、ひと目見ようと、大勢のスタッフたちがその両側で、熱い視線を投げかけている。
そんな様子に、奈々子は、多くのスタッフが向ける視線に緊張しながらも、微笑みを返しつつ、大会議室へと入っていった。
祐太郎と奈々子は、楕円形の会議用テーブルに、正一郎と長谷川へ向かい合う形で、ふたり並んで座った。
「あの・・・」
最初に口を開いたのは、祐太郎であった。
「まあいい。それより・・・、その髪、どうしたんだ?」
正一郎が、祐太郎の頭髪を見ながら少し苛立ったように言った。
「その件は、わたしが説明します」
そして奈々子は、先ほど帰っていった宮野が、裏のビジネスとして、成人向け有料動画アプリの販売を、ホストクラブを使ったネットワークビジネスで展開していること、そして、そこから得られる多額の収益を、政治家秘書や霞が関官僚へのハニートラップ費用として使っており、さらにはその道具として、自分の後輩女優を含めた多くの女性が、パパ活と称して利用されていることを話した。
「あの宮野社長が・・・、そんな裏の顔を?」
そう言う正一郎は、驚いたように奈々子を見つめている。
「はい。その裏ビジネスの仕組みを探るために、祐太郎さんには、ホストクラブへ潜入してもらったということです」
「では、もしかして、新藤さんが半年間の休養をマスコミに向けて発表した、真の理由はそこにあると?」
正一郎の問いに、奈々子は黙って頷いた。
「それで、ホストクラブに潜入した成果はあったのか?」
正一郎はそう言って、祐太郎を見つめた。
「はい。ですから、ホストは一週間後に終了する予定です」
「そうか。では、新藤さんにちょっとお聞きしたいのですが・・・。宮野社長が、今日当社に来られたのは、新しいタクシー配車アプリの機能をアップグレードという方法で導入する件です。都内に数あるタクシー会社の中でもウチを選んだ理由、それは、もしかすると彼がそうした新藤さんと祐太郎の動きに気づいたからなのでしょうか?」
そう問いかけてきた正一郎を見つめながら、奈々子は頷いて答えた。
「おそらく、何らかの方法で、御社に勤務する祐太郎さんの情報を入手したいと考えたのだと思います。宮野は、まだ祐太郎さんの素性を把握していないはずです。でなければ、先ほどのような驚いた顔はしないと思います」
「なるほど・・・」
正一郎はそう言って、宮野の提案内容を話しはじめた。それはまず、乗車した利用客が、気の合うドライバーをその場でお気に入り登録し、次回、そのドライバーを指名して配車させるアプリである。利用する場合は、GPSと連動した地図上で、空車で走るお気に入りドライバーのアイコンをタップして指名し、ドライバーが受諾した後は配車時間の指定なしで、車を呼ぶシステムになっていることを説明した。
「それじゃあ、うちの登録ドライバーデータをすべて、まるっと宮野さんの会社に開示して、先方は坊っちゃんの情報を入手するっちゅう魂胆かい?」
長谷川はそう言った後、すでに祐太郎はドライバー登録を抹消しているため、仮にデータを提供しても、そこに祐太郎の情報は含まれないことを付け加えた。
「でも、さっき見られたからなぁ・・・」
祐太郎が、椅子の背にもたれかかると、宙を見つめながら言った。
「まあ、それは仕方ない。それよりも祐太郎、これからどうする予定なんだ?」
正一郎が祐太郎に問いかけると、奈々子が「まずは、宮野の動きを注視するだけだと考えています、」と答えた。そして、既にマスコミでは、宮野が経営するエムケーフォースが脱税をしていると報じている一方で、今年の秋頃には会社を上場させる予定もあり、いずれ宮野が自ら何らかの動きをするのは当然であると話した。
「では、当社としても、今回、宮野社長が持ちかけてきた提案については、一時凍結する方向で考えるか・・・」
正一郎は、今回の提案が、導入する上で既存システムへの負荷が少ないことに加え、ドライバーのモチベーションアップや、実車率の向上で燃料費低減につながることから、高く評価していたことを話した。
「仕方ないが、当然そうなるな・・・。ところでなぁ、宮野さんと一緒に来た男や。運転席に座った男。どっかで見た事あったなぁ~と思うたら、以前ウチにいた坂本憲次やから、もう、びっくりしたで」
正一郎の隣に座る長谷川が、驚いた表情で言った。そして、これまでの話題を変えるかのように、宮野の部下として来社した坂本について話そうとしたところで祐太郎がそれを遮るように話しはじめた。
「その方は、以前に青山で・・・」
祐太郎がそう言いかけると、長谷川が「えっへん!」と咳払いをしてその後の言葉を遮った。なぜなら、祐太郎が青山の銀杏並木通りでスピンターンして坂本の追跡を振り切った事情を知らない正一郎に、今そういった話しをしないほうがいいと判断したからである。
「あの坂本はなぁ、以前ウチでタクシードライバーをしてたんや。正一郎さんも覚えとるやろ。VIPの顧客を乗せた坂本が、首都高で起こした五年前のスリップ事故や」
「ああ、あの時の・・・」
正一郎はそう答えると、先ほど受け取った坂本の名刺を取り出した。
「名刺には、エスケークリエイトの代表取締役とあるが・・・、確か、今の赤坂オフィスを来月にも子会社化して、その会社の代表を務める予定という話をしていたな」
正一郎がそう言い終わると、長谷川は、坂本の生い立ちを話し始めた。
坂本は千葉県出身で、結婚し子供も生まれた当時は、都内で一部上場企業の会社員として勤務していた。やがて、その会社が早期退職者を募集すると、その制度を利用して三〇才過ぎに独立、シニア人材活用のコンサル会社を設立した。しかし、その後の経営不振により、弁護士を通じて破産手続をした後は、生活保護を受けながらも、さまざまな仕事に従事してきたのである。そして、その中には、短期間ではあるがホストクラブもあった。そして最終的にメトロキャブでタクシードライバーを始めたのである。その後は、生活保護の必要もなくなり、家族とともに順調な生活を送っていた。しかし五年前、VIPの顧客を乗せた際にスリップ事故を起こしたことが原因となり、会社側は坂本の雇用を守ることができなかったのである。
「そんな過去があったんですか・・・」
祐太郎が、しみじみと同情するような口調で言った。
「恐らくその後、ウチが紹介した会社でハイヤーの運転手をしているうちに、宮野氏と知り合ったのかもしれんなぁ」
祐太郎は、長谷川の話を聞きながら、そんな苦労人の坂本が、次は赤坂オフィスの子会社化とともに、責任ある会社代表になることで、さらに不幸な状況を迎えるのではないかという思いに駆られていた。
「もしかすると、坂本さん・・・、トカゲのシッポ切りに利用されるかも」
そうつぶやいた奈々子を、祐太郎は、言い得て妙という顔で見つめた。

夜の銀座九丁目界隈は、場所が新橋に近いこともあり、仕事帰りに一杯というサラリーマンたちが、せわしなく行き交っている。
外堀通りから中央通りに入ったところでタクシーを降りた宮野は、みゆき通り沿いにあるクラブ、シルバーキャットへと歩いていた。というのも、夜のみゆき通りには黒塗りの高級車が路上駐車で路肩を埋め尽くすため、渋滞になることが多く、徒歩で行くほうが早いからである。
また、いつもの白いベンツを運転する坂本は、新会社設立の業務が佳境を迎えており、それに専念するため、当面の移動はタクシーを使っている宮野であった。
以前、宮野が主催するゴルフコンペに何度か誘ったことのある銀座クラブのオーナーママ、芳野由紀子が経営するシルバーキャットは、多くのクラブが入居するビルの8階にあった。その8階でエレベーターを降りた宮野は、高い格式を窺わせるシルバーキャットの重厚な入口ドア開けた。柔らかな間接照明が癒しの空間を演出するエントランスを抜け、店の中に入ると、一番奥にあるボックス席のソファーでは、すでに東西証券の役員である河波正治が、ピンクのツービース姿が美しいホステスのアキと談笑している。
「あら、宮野さん、お久しぶり。河波さんがお待ちになってるわ。さあ、こちらへ」
オーナーママである由紀子が店内に入ってきた宮野に気づくと、カウンターから足早に出て、河波の座るボックス席へと案内した。
「アキちゃん、ちょっと席を外してくれる?」
宮野が近づいてくる姿を見て、河波がそう言うと、アキは自分のグラスを手にして静かに席を離れた。そして、すれ違う宮野に軽く会釈をしながらカウンターへと向かった。
「ねえ、あの人って・・・」
カウンターに入ったアキが、内側で先ほどから自家製のつまみを準備していた真由子に聞いた。
アキは真由子より入店が早いといっても、ほぼ同時期にシルバーキャットで勤務し始めたために、宮野のことはあまりよく知らない。
「宮野社長よ。エンジェルアプリを作った人。あなたもインストールしてるでしょ。最近になって会社の不祥事が報道されてるから、その件で話しがあるんじゃない?」
「じゃ、宮野さん用にグラス持っていくわね」
アキはそう言って、河波と宮野の座るボックス席へと向かった。
「失礼します」
アキがテーブルにグラスを置くと、河波は、手でグラスを置くだけでいいという仕草をして、カウンターへ戻るように目で合図した。
「宮野さん、ちょっとマズいよ。マスコミ報道が過熱しているからね。この状況からして、IPOは延期したほうがいい」
そして、河波は、仮にIPO(新規株式公開)を実施しても、上場初値は公募価格を下回る可能性が高いと告げた。
「それは、まだ疑惑ということですから・・・」
宮野がそう言いかけたところで、河波が顔をしかめながら話し始めた。
「宮野さん、火のないところに煙は立たず、ですよ。投資家は、こういった情報にはかなりデリケートなんです。これから国税も査察に動く可能性もある」
「えっ、本当ですか?」
「ええ。ウチのシンクタンク部門からの情報では、その可能性は高いらしい」
河波はさらに、宮野の会社が、あまりにも官公庁を中心としたアプリ開発に傾注していることで、営業リスクが高くなっているとも告げた。
「それとね、宮野さん。自由に使えるお金って、どうやって捻出してるのか知らないが、今のうちに綺麗さっぱり整理したほうがいい」
河波が繰り出す言葉に、宮野は視点が定まらないまま、ただ沈黙を続けている。
「それなら、最後は子会社に全責任を・・・」
「宮野さん、子会社といってもね、最終的には親会社にその管理責任が問われるんですよ。投資家だってバカじゃない」
河波がそう言い終わると、宮野は深くため息をついた。
「ちょっ、ちょっと宮野さん、どこへ?」
いきなり無言で立ち上がった宮野に、河波が声をかけた。
「いろいろ・・・、有難うございました。今日は・・・、失礼致します」
明らかに動揺した顔つきで、振り向きざまにそう言った宮野は、ゆっくりとした足取りで、シルバーキャットの出口へと向かった。それを見たオーナーママの芳野由紀子が、慌てて先回りし、ドアを開けた。
「宮野さん、大丈夫?」
「ああ、ママ。今日はちょっと・・・、ゴメン。先に帰るよ」
宮野の力無い口調に、由紀子はだだ、黙って見送るしかなかった。
いつしか降りだした雨が、夜の銀座を歩く宮野の上に降り注いでいる。
「こんな日に、雨か・・・」
宮野は、そうつぶやきながら、濡れるにまかせて、みゆき通りを中央通りへと向かった。
「キキ~ッ」
車の急ブレーキの音がした。
「バカヤロー、死にたいのか!」
車の運転席から窓を開けて、若い男性が罵声を上げた。
「死にたい?フッ、ハッハッハッ」
そこには、中央通りの横断歩道を、赤信号にも関わらず、大声で笑いながら濡れるにまかせて歩く宮野の姿があった。

翌日。昼間にもかかわらず、空には厚い雨雲が広がりはじめ、夕方のように薄暗くなった午後一時、平河町の衆議院議員会館の一室には、複数の封筒を重ねて束にしたものを渡そうとしている坂本の姿があった。対面しているのは、議員秘書の若槻英男である。
「では、こちらが、ご依頼の領収書になります。すべて個人別に、それぞれ封筒に入れております」
「すみません、いろいろと。マスコミ報道の後、関係する官僚たちが、個人宛の領収書をもらって欲しいって・・・。この後は、私が本人たちに渡しておきますから」
宮野から、さまざまな接待を受けた官僚たちが、接待ではないと主張するための証拠とするため、過去に遡って訪れた店が発行する個人宛の領収書を要求していたのだった。
こういう時のために、現金での支払い役を務めてきた坂本は、高級飲食店やゴルフ場、高級ホテル、そしてハイヤー会社に対して、接待された個人の名前で領収書を発行させておき、それらを全て、これまでずっと個人的に保管してきたのだった。
「よろしくお願いします」
そう言って、坂本が部屋を出ようとしたところで、背後から若槻の声がした。
「ああ、坂本さん。今後はお互いに、しばらくの間、大人しくしておきませんか」
「そうですね。おっしゃる通りです」
神妙な面持ちで、坂本はそう言って一礼し、部屋を後にした。
赤坂オフィスに戻った坂本は、数人のスタッフが、AVコンテンツの撮影スタジオを、通常のスチール撮影も可能にするために、必要な追加機材をスタジオ内へ搬入する作業を見つめていた。
「近いうちに、国税の査察が入るかもしれない・・・」
数日前に、宮野から、ただそれだけ告げられた坂本は、独自の判断で、赤坂オフィスの社員に対し、「国税の査察官には、このオフィスは、アプリ用の動画や画面デザインを企画製作するコストセンターである」、と話すように教育していた。そして、エンジェルアプリ会員から入金される預金通帳や、それに関連する書類、そしてネットワークビジネスの顧客管理システムを搭載したパソコンも、すべて坂本自身の判断で、都内のトランクルームへ移動させたのだった。
「これで、なんとか乗り切れるかな・・・」
そうつぶやきながら坂本は、最近になって、まるでオモチャを取り上げられた子供のように、茫然と覇気をなくしている宮野の姿を思い出していた。コメンテーターとして、レギュラー出演しているテレビの情報番組や、バラエティ番組のプロデューサーから、しばらく出演を見合わせたいという通知が来たことも、かなり落胆している原因になっているようだった。
また、エムケーフォース本社の役員たちからの情報では、マスコミによる脱税疑惑や官僚接待スキャンダル報道以来、官公庁の新規随意契約がすべて凍結となり、先日にプロトタイプを提案したばかりのメトロキャブ向け配車アプリについても、アップグレードの導入は一時見合わせるという連絡が入ったようである。
「おそらく、今期は赤字に転落する可能性が高い・・・」
本社の財務担当役員から聞いた言葉が、坂本の脳裏に甦っていた。そして、おもむろにパソコンを開き、メールの着信一覧を見ていた坂本は、見慣れない発信元から、一通の新規メールが届いているのを見つけた。
「美月涼?エスプリグループの総代表が・・・、いったいどうして」
メールのタイトルには、「エスケークリエイトのMBO提案について(親展)」と書かれている。
「MBO・・・、マネージメントバイアウトのことか?」
そうつぶやいた坂本は、ゆっくりとそのメールを開いた。

第九話 おわり


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