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「フレンパ」~友だち以上父親未満~ 第七話

「あれから三ヶ月ほどして、夫とは離婚したわ」

二十八年前の遠い、そして甘い記憶をたどりながら、十和子は添好運レストランの列に並んだまま、隣に立つ吾朗へ言った。

「そうでしたか・・・。でも、それって、まさか・・・」

吾朗の問いに、十和子は無言で頷いた。

「うん。赤ちゃんがお腹の中にいるのが分かったの。もちろん、夫には、そんなこと話せないから・・・、何も言わずに離婚手続きを進めたわ。それとね、予想はしていたんだけど、夫のほうにも、その時点で既に別の彼女がいたらしいの」

「まあ、今にして思えば、タイミングとして絶妙な時期だったってことか。でも・・・、その事、どうして日本にいるオレに教えてくれなかったの」

「だって、綾島くんには、あの時点で、日本に結婚を考えている恋人がいたじゃない」

「でも、赤ちゃんのことを教えてくれていたら、オレはそんなこと関係なく、十和子さんを選んだよ」

吾朗は、少し語気を強めて言った。

「あの頃の私って、うんざりするほど結婚生活に疲れてたの。綾島くんだって分かってたでしょ、あの頃の・・・、私の気持ち」

そんな十和子の言葉に吾朗は、かつて香港で十和子と共に、熱く禁断の夜を過ごした翌朝、ふたりで交わした会話を思い出していた。確か、『日本にいる恋人と別れて十和子が離婚するのを待つ』と言った吾朗に、十和子は『この出逢いを宝物のように、そっと心の中にしまっておくだけでいい』、そう言ったのだった。

「そして、シングルマザーとして生きようと?」

十和子は、無言のままで頷いた。

「あと、もうひとつ聞いてもいいかな」

吾朗は、しばらく間を置いた後で、そう聞いた。 

「なに?」

「お子さんは、女の子?」

「うん、そうよ」

「もしかして・・・、名前は、亜矢子?」

口元に笑みを浮かべながら頷いた十和子は、目を見開いて驚く吾朗に対し、離婚した後、日本にいる両親の下で亜矢子を出産し、その数年後、亜矢子を連れて、ふたりだけでカナダへ移住したことを吾朗に告げた。

「私の両親には、本当のことを言っていないの。だから、今でも亜矢子の父親は、離婚する前の夫だと思ってるわ」

「それって、亜矢子さんも、そう思ってるってこと?」

「それは・・・」

目をそらしながら十和子は、さらに続けた。

「あの日、綾島くんが私にくれたポータブルカセット。覚えてる?それを自宅の仕事用デスクに置いて、今でもよく広東語の曲を鳴らして聞いているのよ。するとある日、亜矢子に聞かれたの。『何でこんな古い機械、後生大事に持ってるの?』ってね」

「それって確か、あの時の・・・」

「ええ。あの時、ヒルトンホテルの部屋で音を鳴らして聞いた、あのポータブルカセットよ。でもね、綾島くんのことは、私の口から話したことはないわ」

吾朗は、あの夜、そのポータブルカセットに内蔵された小さなスピーカーから流れる音楽を聴きながら、ふたりで抱き合い、十和子と共に熱く激しい禁断の夜を過ごしたことを思い出していた。そして翌朝、別れ際に吾朗はそれを十和子にプレゼントしたのだった。

「今でも大切にしてくれて、嬉しいよ。しかも、まだ現役で使ってるなんて・・・」

「ええ。あの時に流した曲、綾島くんが香港のスナックで歌ってくれた、あの曲・・・、聴くと何だか、あの日の事が昨日の事みたいに思えるの」

「そっ、それで、亜矢子さんには、そのポータブルカセットを後生大事にしている理由、何て説明したの?」

「私の宝物のような思い出と、儚い青春よ、ってね」

「そうか。だから、あの時・・・、でも、待てよ・・・」

この時点で吾朗は、何か腑に落ちない感覚を抱いていた。それは、三年前のカラオケボックスで、亜矢子が突然に席を立ち、部屋を飛び出した理由についてであった。ポータブルカセットに入っていた広東語の曲が、当時、吾朗が亜矢子の隣で歌った曲と同じだったとしても、それは、単なる偶然ということもありうる。なのに、なぜ亜矢子は、あれほどまでに感情を高ぶらせて部屋を出たのだろう・・・、吾朗は、しばらく黙ったまま考え込んでいた。

隣に立つ十和子は、事前にスタッフから配られたメニューを見ながら、注文票へオーダーする点心の数を記入している。

「いま綾島くんが、何を考えているか、当ててみようか」

ひと通り、注文する点心の数を記入し終えた十和子が、黙ったままで考え込む吾朗の顔を横目で見ながら、そう言った。

「えっ?」

「綾島くんが今考えてた事って・・・、なぜ亜矢子が、あなたの会社に入社したのか。そして三年前、どうして彼女が急に取り乱して、カラオケボックスの部屋を飛び出したのか・・・、でしょ?」

「ど、どうして、分かったのかな・・・」

吾朗としては、自分が考えていたことを十和子が言い当てたことも驚きではあったが、それ以上に、カラオケボックスでのことを、なぜ詳細に把握しているのか・・・、その事の方が、より大きな驚きであった。

「ど、どうして・・・」

同じ言葉を繰り返してしまうほどに、吾郎は動揺を隠しきれないでいた。

「すべての原因は、私にあるの・・・。まあ、順を追って説明するわね」

そして十和子は続けて、その原因を話し始めた。

「あの夜のことだけど・・・、香港のスナックで、私たちがキスをしているところ、ウチの日本人駐在員が見てたみたい」

十和子がそう言ったところで、添好運レストランの店員から、店内のテーブルが空いたことを告げられた。ふたりが店内に入ると、多くの人が、楽しそうに会話をしながら食事をしている。そして、すぐに窓際のテーブルへと案内され、ふたり向かい合う形で座ると、十和子は事前に記載した注文票を店員に渡した。

「まるで、香港にいるみたいね」

賑やかなレストランの店内を見回しながら、そう言った十和子の声に、吾朗は頷きながらも、先ほどまで聞いていた話しの続きが気になっていた。

「それで、さっきの話しの続きだけど・・・」

身を乗り出すように問いかける吾朗に対して十和子は、自分たちふたりの関係がただならぬ不倫関係にあると、帝国通運が設立した香港現地法人に勤務する日本人駐在員の間で、またたく間に噂として広まったことを明かした。そこで十和子はある人物に、その後の身の処し方をある人物に相談したのだった。その相談相手は、当時、香港現地法人の社長をしていた仲城である。

「仲城さんには、離婚や妊娠のこと全てを話したの。もちろん、妊娠の相手が綾島くんだってことも・・・。そうしたらね、何も私を咎めることもしないで、『まずは産休を取得した後、日本の両親のそばで子供を産んで、その後は落ち着いたところで、ゆっくり先のことについて考えればいい』って言ってくれたわ。しかも、綾島くんとの事も内緒にするって・・・」

「その仲城さんって、香港の現地法人社長をした後、日本に戻ることなくカナダの現地法人社長に横滑り異動されて、今は本社で副社長をしている、あの仲城さんだよね」

吾朗は、そう言いながらも、現在の上司である専任部長の仲城のことを思い出していた。彼は、仲城副社長の息子で、いわゆるコネ入社である。そのためか、入社時からエリートコースといわれる本社の管理部門を渡り歩いてきたのだった。

「ええ。仲城さんは、私が日本で子供を産んだ直後に、香港の社長からカナダの社長へ横滑りで異動になったの。だから、その年末に出産報告もかねて仲城さんへ年賀状を送ったのね。産休が終わったら、香港の現地法人を辞めようと思っていることや、日本で仕事を見つけてシングルマザーとして頑張るつもりだってことを書いたら、カナダでコンサルの仕事を紹介するから来たらどうかって、返事をくれたのよ」

そして十和子は、まだ幼い亜矢子を連れてカナダへ渡り、世界的に有名なコンサルタント会社へ就職した。それは当時、カナダで現地法人の社長をしていた仲城が懇意にしていたアメリカ本社の老舗コンサルタント会社と会食をした際の会話に端を発していた。つまり、そのコンサル会社が、カナダに進出している日系企業との新規コンサル契約件数を増やすために、日本人女性で、しかも有能な人材を求めていることを知ったからである。

ふたりが向かい合うテーブルには、すでに多くの丸いセイロが並べられている。その中からは、多くの点心が熱い湯気を立てながら、食欲をそそる香りを放っていた。

しかし、吾朗と十和子は、そんな点心を眺めながらも、いまこの時点では、これまで胸の内に秘めていた想いを言葉にして伝え合うことに夢中になっていた。

第七話 おわり


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