「フレンパ」~友だち以上父親未満~ 第16話
「あの時、カラオケボックスで・・・、亜矢子からポータブルカセットのこと、聞かれたでしょ?」
三年前に、帝国通運の都内支店で営業次長をしていた吾朗が主催した慰労会の二次会場であるカラオケボックス。十和子の言葉に、吾朗はその時の情景を思い出していた。
「あ、あぁ。なんとなく、覚えてるよ。確か・・・、広東語のカラオケ曲のことを聞かれて、その時に話をした気がする」
「そのポータブルカセット、今でも持ってるかどうかって、亜矢子が聞いた時、綾島くん何て言ったか覚えてる?」
「えっ?」
吾朗は、驚いたように反応した後、もう一度、改めて当時の記憶を注意深く思い返していた。
三年前、慰労会の二次会で訪れたカラオケボックスで、自分にマイクが回ってきた後、何を歌おうか迷っている時に、隣に座る亜矢子が、「綾島次長って、以前に香港でお仕事されていたんですよね」と話しかけてきたのだった。そこで、吾朗は、当時を思い出して、広東語のラブソングを歌うことに決めたのである。やがて、流れるイントロや間奏を聴いているあいだ、隣に座る亜矢子が、「どうやって歌を覚えたのか」と聞いてきたことを思い出した。その質問に吾朗は、ポータブルカセットを使って、この歌を練習したことを話した。そして、「今その機械は、まだ持っているのか」と聞かれた際に吾朗は、他人に話すことではないと思ったため、軽い口調で「忘れちゃった」と、酔った勢いもあり、笑いながら答えたのだった。
「確か、『忘れちゃった』って言ってしまった・・・」
そう言いながら吾朗は、茫然と宙を見つめた。
「その言葉が彼女の胸に深く刺さって、急に涙が溢れたみたい。まるで香港でのことを、すべて忘れ去ったかのように、聞こえたのかもね」
「そうだったのか・・・。本当に、申し訳なかった。あの時もし、正直に『あれは大切な人にプレゼントした』って話していれば・・・」
吾朗は、悔しさの滲む目で十和子にそう言うと、テーブルの上に乗せていた拳を、さらに強く握りしめた。
「綾島くんのせいじゃないわ。すべて私が原因だったの。私が悪かったのよ、亜矢子のことは・・・」
「いや、オレのほうだよ。二十八年間も、十和子さんと亜矢子さんをほったらかしにしてた男なんだから・・・」
そして、ふたりの間には、重い沈黙の時間が流れ始めた。
しばらく経って、その重い空気を破ったのは、十和子だった。
「これで、分かったかしら?あの時、亜矢子がカラオケボックスの部屋を出た理由」
十和子が、努めて明るく発したその言葉を聞いた時、吾朗は、まるで十和子に誘導されるように、二十八年間ものあいだ、無意識に心の中で巣食っていた言いようのない虚無感が姿を現し、その後、ゆっくり消えてゆくのを感じた。そして次の瞬間、吾朗は、十和子の瞳が、いつの間にか潤んでいることに気づいた。
「もし、いまオレが順調に会社の出世ラインに乗って、イケイケ状態だったら、こうして二十八年ぶりに十和子さんに会っても、こんなに愛おしい気持ちで十和子さんや亜矢子さんのことを考えなかったと思う」
「そんな綾島くんって、やっぱり昔と変わっていないわね。最後は、こうして正直に自分の気持ちを伝えられる。そんな男って、潔くて好きよ」
「ふっ、そんな大した男じゃないよ。内心は今も出世欲にまみれた、しがないサラリーマンだと思ってる」
そんな吾朗の言葉を聞いて十和子は、かつて吾朗の子会社出向を知った後、帝国通運の副社長である仲城に相談し、本社に復帰させることはできないかと依頼をしていたことを打ち明けた。その結果、部長への昇格は実現できなかったものの、仲城副社長は、息子である仲城専任部長に吾朗を本社営業企画部で引取らせ、しかも十和子が絡んでいるシニア人材活用案件に参画させたのだった。
「そんなことまで、十和子さんが裏側で・・・、有難う」
「もうこの辺でいいかな。長話しになっちゃって、アツアツの点心がすっかり冷めちゃったわ」
幾分、明るさを取り戻した十和子は、そう言うと、次々に点心を頬張り始めたのだった。
「もう少し、追加で頼もうよ。冷めたのは、オレが食べるから」
「やっぱり、やさしいのね、綾島くんって」
「『やっぱり』は余計だよ。でも・・・、ちょっと待って」
吾朗は何かを思いついたように、そう言うと、ブリーフケースから、使い古した黒の長財布を取り出し、中に入っている紙幣の枚数をチラッと数えた。
「ふうっ。大丈夫そう」
支払いの心配をしていた吾朗の手元を、十和子は目を丸くしながら見つめた。
「まだ使ってたの。その財布」
それは二十八年前、ふたりがヒルトンホテルで別れる朝に、十和子が吾朗にプレゼントした高級ブランドの財布だった。
「ああ、結構作りが丈夫だから、まだ現役で使ってるよ」
そう言った吾朗を見つめながら、十和子は笑顔を取り戻していた。
第17話に続く。
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