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30歳ぐらいでフリーランスになる。そしてやってくる壁。

 昨年10月に出版した小説『アーサー・マンデヴィルの不合理な冒険』で、装画を描いてくださった画家の網代幸介さんにお会いしたとき、網代さんが30歳で突然会社を辞めて画家になったと聞いて、親近感を覚えた。
 
 というのも、私も31歳のとき突然会社を辞めて物書きになったからだ。
 網代さんはそれまで絵の描きかたを誰にも学んだことがなかったそうで、てっきり美大でも出ているのだろうと思っていたから驚いた。

 30歳で、絵をきっちり学んだこともない状態で、いきなり画家を志して会社を辞めるのはなかなかの勇気ではなかろうか。
 辞めてすぐ1年後のギャラリーを予約し、出費した以上は描くしかないという状況に自分を追い込んで、独学で絵を描いていったそうだ。
(アクリル絵の具を初めて使ったのも退社後らしい)

 ものすごくわかる。
 そうでもしないと動かない自分、これ以上待っていたら永遠に行動を起こさないのではないかという不安、何も学んだことがないけれどどうしてもやりたいという気持ち、どれも身に覚えがある。

 合理的に考えたら、このまま会社勤めを続けたほうが安全で、生活の不安もなく、将来も安泰に思えるけれど、それでもやりたいことをやりたい。

 それならなぜ今までそれに向けて生きてこなかったのかと、傍から見れば思うだろう。でも、画家なり作家になるなんてありえない夢に思えたし、それより堅実な道を歩むべきかな、と若い自分が考えたのは仕方ないことだったと思う。

 だけど、どうしてもやりたいことに気づいてしまったのだ。
 やるなら早いほうがいい。
 はやる気持ちと不安のはざまで揺れに揺れ、最後は退路を断って退職。
 自分はそんな感じだった。網代さんもそうだったんじゃないかな。
 私は30歳までには決断しなければと焦っていた。
 そして30歳で退職届を出し、31歳で退職した。

 網代さんに共感したのは、その決断だけではない。
 絵を描きながら、同時に仕事ももらおうとイラストなどを請け負っていたが、5年ぐらいすると描けなくなってしまったという。何を描いたらいいのかわからなくなり、途方に暮れたそうだ。
 私もそうだった。
 こんな書き方をしていたらもたないと不意に気づいてしまい、急に書くことができなくなった。

 それはニーズに合わせなければと思いすぎていたからだ。
 求められるものを書かないと食べていけなくなる。そう思っていたからだ。

 網代さんが途方に暮れたのと同じように、私も途方に暮れた。このままでは永遠に書けなくなると思ってしまい、体調を崩して入院したほどだった。
 フリーランスになった身にとって、自分が求められている状況はとてもありがたい。だから、それに応えたいし、それこそが仕事だと思ってしまう。
 でも、そうとわかっていても書けないものは書けないのだ。
 言ってみれば、会社を辞めても、まだ自分の羽根は伸びきっていなかったわけである。

 迷った末、網代さんは、子どもの頃に描いていた絵に回帰していったという。自分の核の部分へと降りていき、求められているニーズに応えるのをやめたのである。
 そうしてあの唯一無二の網代ワールドが誕生した。

「こういうタッチの絵に開眼したのはいつだったんですか?」
 そんな私の質問に、網代さんは「子どもの頃」と答えた。 
 会社を辞めるよりもはるか昔である。
 子どもの頃に好きに描いていた世界に回帰したとき、網代さんはついに画家になったのだった。

 一方、私がようやくこれが自分のスタイルかなと思う書き方をつかんだのは、フリーランスになって4年目、『ウはウミウシのウ シュノーケル偏愛旅行記』を書きあげたときだった。

 それが世に受け入れられるかどうかはわからない。
 わからないけれど、自分にはその道しかない。そうとしか書けない。
 売れるかどうかなんて考えてもしょうがない、それで野垂れ死ぬならそれも仕方ない。
 かっこつけるわけではないが、そのぐらい思い切った気分だった。
 傍から見ればたいした変化ではないかもしれないが、その微妙な変化が私にはとても重要だった。


 自分ごときを網代さんと引き比べるのもおこがましいが、話を聞いて、心の底から共感したので、書いてみた。

 これは本が出てから知ったのだけれど、網代さんと私は同じ誕生日だった。365分の1の偶然に驚いたのである。


 ※唯一無二! 網代幸介ワールドの作品はこちら


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