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オネストのつばさ。

山から下りてきた春風が、真っ直ぐに並んだ緑色の稲をゆらしています。水田の表面に空の青さが映りこんでいます。そんな山あいの小さな村を、軽やかに飛んでいくものがありました。二羽のツバメです。小さな訪問者が今年もやってきたのです。

「あそこだわ」
ツバメの夫婦は古い一軒の家の前にやってくると、周りをぐるぐると旋回しました。昨年作った巣がまだあるか確かめにきたのです。
「おお、ここだ」
父鳥が玄関の柱の上に巣を見つけ、母鳥に声をかけました。
「これなら掃除すればまた使えそうだ」

安心したツバメの夫婦は近くの電線に止まると、しずかに身づくろいを始めました。長旅のせいで羽根があちこち傷んでいます。ツバメたちは時間をかけて、つばさの細かな羽毛をくちばしの先でていねいにほぐしていきました。

  **

母鳥が巣の中で五つの卵を温めています。もう二週間もこうして座り続けているのです。
「子どもたち、早く出てらっしゃい」
時折やさしく話しかけます。卵はアーモンドくらいの大きさで、白地に茶色の小さな斑点がついています。そのうち卵が一つ割れ、二つ割れして、目元が真っ黒なヒナたちが出てきました。まだ目は見えていないようです。ピイ、ピイ、ピッピピイ。母鳥はヒナたちにほおずりしました。

「次はオレの出番だな」
父鳥が長い尾羽をふるわせて、空中に飛び立ちました。田んぼの上や森の中を、上がったり急降下したりしてはエサをとらえ、巣に持ちかえります。ツバメはハチやハエ、アブやトンボなどさまざまな昆虫を食べるのです。

四羽のヒナが次々にかえりました。母鳥はヒナたちの邪魔にならないように、割れた殻を巣から落としていきます。ところが一つだけ、まだ割れない卵があります。ゴロゴロン。卵は時々小刻みにゆれています。そろそろかしら。母鳥がくちばしでやさしくつついてみますが、まだ割れる気配がありません。
「おかしいわね。どうしたのかしら」
母鳥は心配しながらも、エサを探すために飛んでいきました。

卵の中で眠っているのはオネストです。フガフガ、フガ。半分眠って半分目覚めたへんな状態です。
「転がるって、面白いな」
オネストは殻の中でひとり遊んでいるのです。でんぐり返しするように頭が上に来たり下に来たり。楽しくて笑いそうになった時、殻をガツンとつつかれました。あ、まぶしい。殻にひびが入り、すきまから太陽の光がさしこみました。

「じゃまだ、じゃまだ。そんな所に転がってたら、巣の中が動きずらくて仕方ない」
オネストを起こしたのは兄弟のボブでした。
「なんだい、いやなやつだな」
オネストはムッとして口をへの字に曲げました。

一週間がすぎました。ヒナたちの目はぱっちりと開き、体に生えた黒い産毛も濃くなりました。鳴き声も大きくなりました。親鳥がエサを取ってもどると、みんな一斉に進み出て、黄色い口を思いっきり開きます。
「ちょうだい、ちょうだい」

オネストだけがのんびりと、巣の端から周りの景色をながめています。遠くの田んぼで赤い乗り物にのった人間が田植えの作業をしています。後ろから白サギがついて歩いていきます。
「面白いなあ」

巣のそばには八角形の白くて薄いカーテンがあります。風が吹くとゆれるのに、こわれません。その真ん中に、長い八本の足をもつ黒と黄色の縞模様のクモがすわっています。
「面白いなあ」

オネストはちょっとだけ変わりものでした。お腹いっぱい食べることより、世界をながめるのが大好きだったのです。自分の興味がわいたものに気持ちが向くと、そのことばかり考えます。その日もオネストは犬が散歩している様子をながめていました。すると突然、後ろからドンと突き飛ばされました。

「だれだ!ぼくのこと押したのは?」
腹を立てたオネストがふりむくと、ボブが笑っていました。
「押したんじゃないぜ。当たっただけさ」
ボブはオネストの細い体をジロジロ見ながら言いました。
「お前、ちっともエサ食べないな。だから当たっただけでふらつくんだぞ」

食いしん坊なボブは丸々と太っています。
「食べてるだけじゃつまんないよ。ぼくはこの世界をしっかり観察したいだけさ」
「ガハハハ」
それを聞いたボブは大笑いしました。

「オレたちはツバメなんだぜ。自分のつばさで、この広い世界をどこまでも飛んでいけるんだ。そしたらもっとめずらしいものを見たり聞いたりできるじゃないか」
「自分のつばさで?」
「ああ、お前の肩にもちゃんとついてる」

オネストは自分の両肩についた二つの小さな羽根をまじまじとながめました。
「こんな小さいつばさじゃ飛べないよ」
「何バカなこと言ってんだ!」
ボブが怒ったように言いました。

「オレたちは渡り鳥なんだぞ。いつか父ちゃんや母ちゃんみたいに、オレたちも海を渡るんだ」
ボブの言葉に、他の兄弟たちも力強くうなづきました。渡り鳥?海?オネストには何のことだかちっとも分かりません。生まれてから目にしたものは空と山、田んぼ、家、車、人間、犬、猫、他の鳥たち。海なんて見たことも聞いたこともありません。

「お前、もしかして…」
ボブが心配そうな表情になりました。
「卵の中であの夢を見なかったのか?」
「あの夢?」
オネストは全く覚えがありません。それを見たボブは急に勢いをなくしました。
「オレがお前を無理やり起こしたからかな。だからお前は、大事な夢を見ないまま生まれてきちゃったのかな」

三週間がすぎて、ヒナたちは親鳥と変わらないほど大きくなりました。中でもボブは一番大きくて、だれよりも練習熱心でした。
「みんな、ちょっとよけてくれ」
兄弟を押しのけて巣の前に出ては、パタパタとつばさを素早く動かします。「いいぞ。その調子だ」
父鳥にほめられると、ボブは益々はりきって練習します。オネストだけが相変わらず巣の端で、紫陽花の花をながめていました。
「花ってきれいだな」

  **

六月に入ってまもない晴れた日の夕方のことでした。親鳥は食事に出かけ、兄弟たちは昼寝をしていました。オネストは塀の上で日向ぼっこをしている猫を見ていました。

「おい、オネスト」
不意にボブが言いました。
「オレ、飛んでみるから」
「父ちゃんが戻ってくるまで、待てばいいじゃないか」
「飛べるとこ、最初にお前に見せてやる。そしたらお前も練習する気になるだろ?」
そう言うと、ボブはウインクしました。

巣のへりに止まって二回深呼吸した後、ボブは勢いよくジャンプしました。体がまっさかさまに下に落ちていきました。と思ったらすぐに上がってきて、少し離れた電線までふらつきながら飛んでいきました。つばさは力強く動いています。初飛行は成功です。
「ほらみろ。ちゃんと飛べただろ?」

電線の上から大きな声でボブが叫びました。次の瞬間、強い風が吹いてボブの小さな体がゆれました。あぶない!電線から落ちかけたボブは体勢を立て直し、塀の上に着地しました。オネストはホッとしました。ところが…今度はシュッと大きな茶色いかたまりがボブの上にかぶさりました。猫でした。

巣にもどってきた親鳥は「ボブ、ボブ!」と叫ぶように鳴いて辺りを探しました。兄弟たちも悲しそうな声で鳴きました。オネストだけがだまったまま、静かに涙を流しました。それから三日間、オネストは何も口にしようとはしませんでした。

  **

このところ空には黒い雲がどんよりと居すわっています。わずかな晴れ間を利用して兄弟たちは飛ぶ練習を続け、一羽、また一羽と飛び立っていきました。今ではもう、巣に残っているのは一羽だけになりました。雨はザーザーと降り続き、雨音がオネストを包み込んでいます。

「ねえ、君、どうしてそんなに海の上を飛びたかったんだい?」

オネストは心の中でボブに語りかけました。もちろん返事はありません。夜になりました。雨は止み、空には星がまたたいています。オネストはいつの間にか眠っていました。夢の中でオネストは、広い海の上を飛んでいました。それが海であることはすぐに分かりました。海は空よりも青く、白い波しぶきが立ち上がっています。

「よお、お前も飛んでるじゃないか」
「ボブ!」
後ろから追いついてきたのはボブでした。オネストを見てボブがにっこり笑いました。二羽の若いツバメは、追い風に運ばれて先へ先へと進んでいきます。遠くに小さな島が見えてきました。

「あれが南の島なのか」
ボブに話しかけようとした途端、ハッと目が覚めました。オネストはその時、はっきりと分かったのです。

「ぼくはツバメだ。渡り鳥なんだ!」

そう思った途端、体の中に不思議な力がみなぎるのを感じました。ビリビリっと電気のようなものが体じゅうを走りました。両方のつばさを持ち上げてみると、内側にたまった空気の感覚がつかめました。オネストのつばさがようやく、その役割に目覚めたのです。

次の日からオネストは飛ぶ練習を始めました。朝から夕方おそくまで。はげしく動かしたつばさは夜になると熱をもち、ズキズキと痛みました。それでも一晩眠ると痛みは引き、むねの辺りの筋肉が少しずつ厚みをましていきました。

ある朝、太陽が山のふちを明るく照らしはじめる頃、オネストはたったひとり巣を飛び立ちました。大きくなったつばさがしっかりと体を支えています。オネストはふり返ることなく、山に向かってまっすぐに羽ばたいていきました。二つの小さな影が、そばの電線の上からその後ろ姿を見送っていました。




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