見出し画像

#118素麺に乾杯。

おはようございます。最近の自分の行動にはたと気がつきました。宮本松は月・水・金でエッセイをアップしているのですが、このところ毎週月曜日にはなぜか食べ物の話題を記事にしています。計画的にそうしているのではなく、半ば無意識に。ちょっと面白い気がします。

いつも一週間分のテーマを自分なりに考えるのですが、最初に頭に思い浮かぶのが恐らく食べ物なのでしょう。日々料理をしているせいで、食べ物について考える時間が多いということもあるでしょうし、気楽に書き始められるのが食べ物についてなのでしょう。

というわけで、今日は素麺の話です。素麺について多くを語る、深く語るのではありません。夏場の真っ白い素麺っていいよねえと。ただそれだけを今、無性に語りたくなっているのです。

子どもの頃は、それほど素麺のことが好きではありませんでした。麺好きな父が茹で上がった素麺を、ほこほこした顔で大鉢に氷といっしょに入れて食卓まで運んできて、
「よおし、食べるぞ!」
と家族みんなに声をかけても、
(あー、また素麺か…)
と心の中で思っていました。

父は料理のレパートリーが多かったわけではありませんが、いくつかのレシピについてはこだわりがありました。時間をかけて煮込んだカレーとか卯の花とか、美味しく味付けされた料理もありました。が、麺つゆだけはいただけませんでした。薄味の好きな父の舌にはちょうど良い濃さなのでしょうが、わたしには味のないつゆとしか思えなくて、味のない素麺を味の乏しいつゆにちょこんとつけて食べても、お腹が膨らむだけで、美味しいものを味わった喜びは感じられませんでした。

次に思い出すのは、自分が母親になり、子どもたちが小学生の頃のこと。夏休みになると、わたしは昼食のメニューとしてよく素麺を茹でました。市販のつゆを使って食べるので、味はしっかりあるのですが、夕食までのツナギのような役割を担う素麺にありがたみを感じることは、それ程ありませんでした。あえて素麺に声をかけるとするなら、こんな気持ちでした。

「素麺や、ありがとう。子どもたちのお腹を満たしてくれて。そしてわたしの調理の時間を短縮してくれて」

そして今。二週に一度くらい、わたしは夕食に素麺を食べたくなります。「今夜は素麺にしよう!」
そう決めた時点で、わたしの食事作りの負担感は70%ほど減っています。だって麺を茹でるだけだもの(笑)。冷凍庫の氷が沢山あるかどうかをチェックして、足りなそうなら作ります。素麺に添えるおかずは、肉系のお惣菜を買うか、焼売をやいて、後は切っただけのサラダくらいでしょうか。素麺のお陰で昼間も心軽くすごせるという、小さな喜びを味わいます。

そして夕食の時。素麺をきっかり二分茹でてから、冷たい水でよく洗います。洗っている自分の手がひんやりするのを感じながら、頭の中には、白い素麺の爽やかさを口の中で堪能する予行演習をしているようなイメージが湧いてきます。麺つゆには氷を入れて、おろした生姜とネギ、すりごま。薬味の美味しさが、味のない素麺の、その味のない美味しさを引き立ててくれます。

「なんだこりゃあ」的な素麺の美味しさったら、たまりません。もう何度食べたか分からないくらい食べてきたのに、猛烈な暑さにやられた日ほど、初めて口にしたかのような満足感を味わえる素麺。食べ終わると、お腹の中に、素麺のひんやり感がしばらく滞在してくれます。その涼しさを感じながら、ささっと食器の後片付けを済ませます。こんな日は洗い物も少なくて、とっても楽です。

年をとってから、こんなに素麺の魅力にはまるとはなあ。ネット検索してみると、さまざまな素麺の楽しみ方が紹介されていて、キッコーマンのHPでは、なんと80種類もの素麺レシピが…。美味しそう、色が綺麗とか思いつつも、わたしはやっぱり素朴な飾り気のない素麺を今年も楽しむことになりそうです。




最後まで読んでいただき、ありがとうございます。サポートしていただけるなら、執筆費用に充てさせていただきます。皆さまの応援が励みになります。宜しくお願いいたします。