一年前、就活生だった自分に送る。



ちょうど一年前、僕は「就活生」と言われる状態にあった。

たぶん、第一志望の企業の最終面接に向かっている頃だろう。

<自己分析>をして、面接で聞かれることをリストアップし、事前に回答を考えた。

もちろん、「御社が第一志望です!」を笑顔で嘘偽りがないように言う練習を鏡の前で数回行った。半ば冗談半分ではあったが、逆に言えば、半ば真剣にやっていた。

当日は真っ黒なスーツに慣れない革靴を履いて、足首に感じる一抹の痛みにため息をしながら、それでも不安で顔をこわばらせながら、誰が見ても「面接を控えて緊張している就活生」という姿で企業のオフィスまで歩いた。



就活。就活とは何なんだろう。



多くの大学生が、3年生になると就活を意識し始め、よくわからない「就活」というものに悩まされ、時には絶望する。

なぜ、僕たちは「就活」という謎の、ほとんど謎の生命体によって、身を削るような苦しみを、身が引き裂かれるような苦しみを味あわなければならないのだろうか。


「自己分析をしましょう。」と就活サイトでも、就活セミナーでも、あるいは先輩も、企業説明会でも、どんな場所でも自己分析を推奨する。ほとんどの学生が就活を始めるというときに自己分析から取り掛かる。面接に受からず、社会人に相談しても「自己分析が足りてないね」と言われる。

自己分析をして、自分にはこんな弱みがあると思うというと、その弱みは面接では言わないほうが良いよと言われる。自分はこんなことをしたいというと、それは企業では叶えられないと言われたりもする。


ああ、自己分析とは何なんだ。


自己分析をしろとは言うが、誰も自己分析とは何なのか、その定義を教えてくれる人はいないではないか。
みな、「自己分析」が何かもわからずに、ただ「自己分析をしろ」と繰り返すだけではないか。
自己分析ツールはあっても、自己分析自体の説明がどこにもないではないか。
自己分析という謎の生命体にみな侵されているようだ!



就活における苦しみの多くは、この自己分析というものへの勘違い、無理解からくるではないか。

どういうことか。

就活における自己分析は、2つの異なる自己分析を区別せずに使用している。つまり、自分が何をしたいのかという意味での自己分析と、自分という商品をどう見せるかという意味での自己分析の区別をしていないということ。

後者の自己分析は、いわゆるマーケティング分析とほとんど同義である。企業に就職するというのは、労働力として自分の時間を企業に売ることだと言い換えることができる。つまり、就活とは一種の商売なのである。


一方で、その売られる商品は、ティッシュやコップのような物体とは違って、固有の人生を生きる一人の人間である。自分のしたいこと、好きなこと、つまり欲望を持っている存在である。前者の自己分析は、つまり、このような固有の欲望を持つ存在としての自己分析である。


就活における自己分析は、この2つの側面をもった自己を区別せずに扱っているのだ!


この2つの異なる自己分析が生まれる原因は、企業が求めている一貫性をもった自己と人間本来の多様な面をもった自己との違いにある。


企業が求めている人材は、自己の欲望をもって生きる固有の主体ではなく、企業の売上向上という目的に貢献する労働力であり、まさに、売上向上という目的に対して役に立つ「材」を求めている。
だから、企業にとって個人の欲望はどうでもいいわけだ。
(もちろん、企業側も個人が固有の欲望を持つ存在であることは多少なりとも認識しているから、個人の欲望を会社の目的にうまくつなげることで、逆に利用しようとしている。これがまた厄介なのだが。最近流行りのビジョンという言葉はその好例だと思う。)

そこで、就活生は与えられた時間、30分の面接、数百文字のエントリーシート等によって、短時間で自分という労働力が、企業が投資する価値のある商品であることをアピールすることになる。企業体は基本的に「時は金なり」というシステムの中で動いているので、就活生を何時間もかけて一人一人じっくり見るようなことはしない。特に大企業となるとそうだ。だからこそ、マーケティング的な戦略とそれに基づいた営業的な面接が必要になる。

このように、自分という商品を短時間で企業という買い手に魅力的な商品として売りつけるために、自分の労働力としての特徴、強み、弱み、実績を分析し、その上で、自分という商品がどの市場=企業に適しているのかを考える必要がある。そして、受ける企業に合わせて、どの特徴をどのようなストーリーに乗せて語るのかを考えなければならない。その際、商品=就活生が企業にとって魅力的かつ、短時間で理解可能な一貫したストーリーによって語られなければ、買い手は多くの場合、商品=就活生に興味を持たない。

このマーケティング自己分析のやり方は、マーケティングに関する入門書を読むか、誰かにものを売る経験をしてみるかすれば、だいたいわかるだろう。
わかったからと言って簡単にできる訳では無いが、意識するだけでだいぶ違う。

その一方で、就活生は、先ほども言ったように一般的な商品とは異なり、固有の欲望をもち、多様な面をもった人格である。家でゆっくり寝るのも好きだし、バンド活動もすごく楽しい。本を読むのが趣味で、小説を書いてみたい。海辺に住んで朝からサーフィンしたい。恋人の前ではかっこつけるが、友人の前ではおちゃらけキャラだとか。人間は本来、企業が求めるような一貫した存在ではなく、錯綜した存在なのだ。

だから、企業向けのマーケティング分析とは別に、自分がどのような欲望をもっているかを分析することが重要である。この欲望分析が全くないと、会社に入っても会社の目的に従属し、気が付いたら「あれ、俺何やってたんだ」と後悔するが、気が付いた時にはもう…みたいなことになるかもしれない。だからこそ、人生という長期スパンで見ると、この欲望分析はものすごい役に立つ。一年前の僕にはぜひやってもらいたいと思う。


具体的にどうやるのか。欲望分析とは何なのか。

まず、この欲望分析という考えは、『勉強の哲学』(千葉雅也著)を参考に、というかパクったものだ。だから、就活生はそこら辺の自己分析ツールや就活本、セミナーに通うのではなく、この本を読むことを強く強くおすすめする。(ほとんどの就活セミナーははっきり言ってほとんど害悪だと思う。)

簡単に説明すると、欲望分析とは自己を欲望という観点から分析することである。自分の欲望の根っこにあるもの、あるいは傾向性を知ることで、人生においてどのような行動を選択すると自分らしく生きることができるのかを、いくらか把握することができる。簡単に言えば、「生きがい」を見つけるためのヒントを得られる。

(㊟欲望分析をすればすぐに、生きがいを見つけることができるわけではない。人生をかけて悩みながら見つけていくしかない。しかし、欲望分析はその役に立つ。)

ここで重要なポイントとなるのが、欲望年表である(具体的には上記の本を参照されたし)。簡単に言えば、自分が影響を受けてきた人・物・事を時系列で列挙した年表である。自分ではなくて環境や他者を列挙するのかには理由がある(それも本に書いてある)。
人は常に環境=他者にさらされ、その環境との関係の中で生きている。だから、自己を他者から切り離すことはできない。逆に言えば、自分に否応なく影響を与えてきたであろう他者を把握することは、より自分自身を知ることに繋がる。だから、欲望年表なのだ!

(サブ欲望年表というのはここでは割愛する。とりあえずみんな、『勉強の哲学』を読んでくれ。)



就活は、資本主義システムに労働力として参入する通過儀礼のようなものかもしれない。資本主義は永遠に目的を追い続ける、目的型のシステムであり、企業体はその論理に従っている。その終わりなき目的達成の回し車を、「成功」という名の餌をつるされて走り続けるハムスターに僕はなるのか。いや、その回し車さえ享楽に変えてしまおう。そして、回し車からの逃げ道を用意する。僕の人生は自己目的的な冒険なんだ。君は冒険の道を進むんだ。その第一歩として自分の欲望を、その根っこまで掘り返してみよう。

追記

就活は、固有な欲望をもつ交換不可能な自己と、社会における交換可能な自己との狭間の中で葛藤し、その過程で、自分を見つめ直し、変えていく営みなのかもしれない。

労働力として交換可能な自己になるというのは、必ずしも悪いことではない。自身を交換可能な存在と見るということは、他者の視点で自己を見つめ直すということであり、それはそれで大事だと思う。

上記のマーケティング的な自己分析はどちらかといえば自己の脱中心化の営みであり、欲望分析はどちらかといえば、自己の中心化の営みだと大別できるだろう。
とはいえ、欲望分析も他者との関係において自己を見つめることであり、マーケティング分析も企業という他者から自己を見つめることであるので、完全には分離はできはしないが。

就職やバイトなど含め、働くということから断絶し引きこもってしまうことは、自己に閉じてしまう過度な中心化であり避けるべきだ。
しかし、一方で、働きすぎて心身ともに身をすり減しすぎることは、過度に脱中心化してしまうことであり、避けるべきだ。

就活は、社会の一員という交換可能な自己という視点から自分を見ることと、固有の欲望をもった自己という視点から自分を掘り返すことを、ほとんど同時に行わなければならない。

それはすごく難しく、ときに痛みを伴う経験だが、その葛藤を含んだ経験を通じて、ひとはより自分らしくなっていくことができるのかもしれない。




<参考にした本> 
・千葉雅也(2020)
『勉強の哲学 来るべきバカのために 増補版』

・市川浩(1984)
『<身>の構造―身体論を超えて―』

・三木清(1941)
『人生論ノート』(特に『成功について』)


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