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「栄光」という光の裏側にあるもの:沢木耕太郎『敗れざる者たち』



 中学生の時に2002年のサッカー日韓ワールドカップを取材した『杯(カップ)-緑の海へ-』を読んで以来、スポーツや映画を中心に様々な沢木耕太郎「私ノンフィクション」を読んできた。都会的でありながら、アスリートや役者の肉体にこもる芯の熱くなる部分も忘れない、シャープな文体のファンである。
 今回の『敗れざる者たち』については「なんで今まで読んでこなかったんだろう…」と、少し後悔すら感じるような「珠玉」という言葉に相応しい1冊だった。

『クレイになれなかった男』
 沢木がボクシング雑誌の片隅の編集部への質問コーナーで懐かしい名前を見つける。かつて東洋ミドル級チャンプとなり、時代の寵児となったカシアス内藤こと内藤純一だった。モハメド・アリの改宗前の本名カシアス・クレイになぞらえたリングネームはアメリカ人の父と褐色の肌を持つ彼に重くのしかかり、いつの間にか表舞台から去っていた彼は戦いの場所を韓国に移していた。しかし釜山で沢木が見た内藤のファイトは不完全燃焼であった。
 内藤のボクサー人生を紐解いていくと、素質はずば抜けていたが、性格が優しすぎることがわかってくる。本来人間として最大の美徳であるはずの性格は、闘志を燃やすべきアスリートには壁となる。特に己の拳で相手をぶちのめすプリミチブなスポーツであるボクシングには、ほかの競技以上に大きな障壁になるのかもしれない。物語の終盤にリング上の内藤に≪やれよ!≫と沢木が叫ぶ姿になんとも言えない感情の揺さぶりを感じさせる。

『三人の三塁手』
 難波昭二郎、土屋正孝の二人は決して地味な選手ではなく、難波は関西大学で当時の関西六大学リーグのシーズン本塁打記録を残し、土屋はプロ入り後11年に渡って活躍し、「眠狂四郎」というニックネームとともに2回のベストナインを獲得している。しかし彼らと同い年で同じく三塁手だった男の光が強すぎて、その男の栄光の影となった。その男とは、もはや野球、スポーツの枠を超え、戦後日本の復興のシンボルとなった長嶋茂雄だった。
 この短編の始まりと終わりの場面は1975年の開幕戦、すなわち長嶋茂雄の監督としての初陣であり、球界が”栄光の背番号3”を失った最初の試合である。難波も土屋も長嶋になれなかったが、長嶋も選手として永遠にグラウンドで輝き続けることはできないのだ。そして長嶋だって、難波も土屋と同じく「元野球選手」という人間の新しい人生が始まる。75年長嶋は指揮官として、今なお読売球団史上唯一となる最下位となった「その後」を知ったうえで読むと、また三人の物語が深くなっていく。

『長距離ランナーの遺言』
 沢木が<まじないや呪文のような響きがある>という違和感を感じた遺書を遺して、27歳で自ら世を去った、64年東京五輪男子マラソン銅メダリスト、円谷幸吉。幼少期より自分を表に出さず、常にかつての軍律的な父や自衛隊という環境に身を置き、マラソンも人生もまっすぐに「道」を走り続けた生涯を追いかける。
 近年サッカーのアンドレス・イニエスタをはじめ、精神的な苦悩や病歴を告白するスポーツ選手が少なくない。一見優雅で華やかなりしトップアスリートの世界は、強靭な肉体が想起させる「健全な」イメージに反して、不安定で、分かち合えない孤独を纏っている。スポーツの存在意義を考えなす時期が来た今、その「輝き」の裏側から目をそむけてしまうことはできないだろう。

『イシノヒカル、おまえは走った!』 
 日本競馬の最高の檜舞台である「東京優駿競走」、すなわち日本ダービー。その栄冠を手にするチャンスが血統的にエリートとは言えないイシノヒカルという競走馬に舞い込んでくる。沢木が馬丁(厩務員)と共に朝三時に起きる生活をしながら、1日ごとに勝負の日が近づき、関係者の口ぶりが高揚していくのが読者である我々にも伝わってくる。
 生きる上で欠かさない現金を、美しい毛並みと脚を持った競馬馬に託してしまうという、ある意味では動物と人間の力関係が逆転したようにも見える競馬の図式は、ほかにはない熱い文学性を帯びたドラマを生む。「人馬一体」という言葉があるが、決して鞍上の騎手と競馬馬だけでなく、馬主からスタンドの競馬ファンまで、種族を超えて馬へ感情移入する競馬の奥深さを感じさせる響きがあるように、この短編を読んで改めて感じた。

『さらば宝石』
 川上哲治をもってして<長嶋といえども追いつかない>、<打撃の神様>と言わしめたかつての天才打者Eこと、榎本喜八は人知れずグラウンドを去っていた。今でこそイチロー、松坂大輔、大谷翔平といった世界でも華々しく活躍する選手を輩出するパシフィック・リーグであるが、昭和の時分にはONを中心とした巨人、セントラルに隠れた「日陰」でしかなかった。そんな「日陰」であるパ・リーグのオリオンズで数々の安打記録を修験者のごとく追い求め、時に自分を追い込んだ姿勢はエキセントリックな行動となって現れてしまい、周りと壁を築いてしまう。
 バッティングに古武術の精神を取り込み、フォームを「型」と考えた榎本はにとって安打を打つことは「道」だった。まだ精神論的な雰囲気の漂う当時のスポーツ界だからこそ榎本が輝けたのもあるだろうし、反対に苦しめてしまったのだろう。歴史にたらればは禁物だが榎本の打撃理論が後世に伝わり、今のスポーツ科学と結びついていれば、また日本野球の哲学も変わっていた可能性は大いにあっただろう。

『ドランカー<酔いどれ>』
 キャリアの晩年を迎えつつある32歳の輪島功一が、『クレイになれなかった男』で釜山で内藤と拳を交えた柳済斗へ挑む。内藤との対戦とは打って変わって激しい戦いになったタイトルマッチは、引退の二文字がチラついていた輪島をリターン・マッチに向かわせる。輪島、内藤、柳という3人のボクサーが著者を通じて不思議な縁で交差していくのを独自の緊張感をもって読み進めていくことができる。
 リングの外の輪島はひょうひょうとした<お調子者>で、我々のよく知る輪島功一像と(いまはバラエティーで共演することの多い、ガッツ石松をあまりよく思っていないことを除けば)大きな差異はない。それでも当時現役の終盤だった輪島の素顔は、ボクシングに関しては沢木の文章がいつ世に公表されるのか気にするなど、ひどく繊細で、一戦にかける計り知れない信念を感じ取れる。ベテランのアスリートに感じる特有のサウダージを漂わせて。

 『クレイになれなかった男』で沢木は『あしたのジョー』を引き合いに出すが、この『敗れざる者』に収録されたスポーツ・ノンフィクションにはすべて『あしたのジョー』にも通じる、現代のスポーツにはない「儚さ」のようなものがある。自ら死を選んだ円谷をはじめ決して美しく模範となる物語ばかりではない。しかし美しさばかりの成功譚では決してくみ取ることのできない、「栄光」とは異なるものではあれど、決して「敗者」ではない、「敗れざる者」たちのドラマがこの一冊にはある。


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