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明大前から始まる踊らない『ラ・ラ・ランド』に映るものは:『花束みたいな恋をした』/映画の中の東京①

※以下の文章、ネタバレ注意※


 「東京は冷たくて素っ気ない土地だ」という論を、幾度となく耳にした。埼玉県生まれで現在東京に住む自分も「その通りだ」と思うことが多いので、地方から来た人は、そうした土地柄をより敏感に感じるかもしれない。
 一言でまとめられる話ではないが、人が多すぎるというのがその理由の1つだと思う。単純な人口はもちろんのこと、46道府県から東アジアを中心とした諸外国まで、多種多様な土地から一定数以上の人間が上京する。ここまでの「ぎゅうぎゅう詰め」具合は、世界的にも稀有な都市であろう。
 そうした様々なバックボーンを持つ人間を狭い東京に共存させるには、土地の個性を薄くせざるを得ないのではないか。個性を弱め、他者への干渉を少なくすることで、成立している土地というであるような気がするのだ。

<だけど やさしい東京 知らん顔してくれるよ>

 これはかつて阿久悠がビートたけしに提供した『東京子守唄』の歌詞だが、この「知らん顔してくれるやさしさ」こそ、良くも悪くも東京の持ち味なのではないか。


 『花束みたいな恋をした』で描かれる恋愛は、誤解を恐れずに言えば地味で小さなものある。もちろん映画(に限った話ではないが)は”不幸自慢”では無いから、このことが作品のクオリティに比例することは全く無い。しかしながら命を賭したり、倫理や道徳における禁忌を冒すような恋愛映画に比べると、京王線沿線で生活する男女が20代の数年を共有し、別れていくだけのストーリーである。
 話としては「小さくて地味」だが、徹底して”地味”、”小ささ”を感じさせない、美しい画面作りをしている。リアリティは極力排除され、『青いパパイヤの香り』や『初恋の来た道』を彷彿させる、暖色の映像美で菅田将暉と有村架純の歩く東京の風景を描いている。ファミリーレストランもこの映画では、あたかもアメリカンダイナーのように映しているが、本当はどこにでもある「ジョナサン」である。

 これを「映画的なウソ」と片付けることも可能だが、この映画は、冒頭から別れた男女の回想であることが分かる構成になっている。案外人間、過去の思い出を都合良く頭の中で美化している。若いころの恋愛など、その最たるものだろう。
 この「美しい思い出」というフィルターに、先ほどたけしの曲から引用した、東京という土地の「知らん顔のやさしさ」が生きてくるのではないか。冷たい、そっけない、でも干渉もしない。そうした都市だからこそ、リアリティに負けることなく、自分の過去を美しく思い返すことが出来る「余白」がある。
 大阪、ソウル、ローマのような、都市に暮らす人間の語気の強い都市、あるいはパリやニューヨークのような豪華絢爛な風景の都市では、それぞれの都市が持つ個性の強さに記憶が負けてしまうのではないか。

 一方で、どんなに記憶のなかで美しい恋愛になろうとも、という面もある。
 若い男女が出会い、夢を語りあうも別れ、その記憶をたどるというあらすじの構造は『ラ・ラ・ランド』と同じである。本来「La La Land」とは”夢遊病”だとか、”脳内お花畑”というような俗語で(”Los Angels”の「L.A.」ともかかっているのだろう)、そうした題のとおり、美化された記憶のなかのカリフォルニアで、ダイナミックに歌い踊る映画であった。
 しかし『花束…』は、話の構造は似ていても、決してミュージカルにはならない。東京での恋愛映画である以上、いくら「美しい過去」なろうとも、歌や踊りは出てこれないのだ。    

 菅田将暉と有村架純のふたりは京王線の明大前駅で出会うが、どうやっても「明大前駅」という舞台からミュージカルにはつながらない。ミュージカルをするにしては、東京の街は狭すぎるし、無機質すぎる土地柄だ。もしも無理やりに東京で歌って踊るミュージカルを作ったとしても、『花束…』のような緻密で儚げな美しさは、失われることだろう。

 「知らん顔してくれる」やさしさと、「踊らない街」という体温の低さ。2つの東京の土地柄はコインの面のように表裏一体の関係にある。これをどうとるか。少なくとも東京という街が、没個性で無表情な街であるということは無い。「無表情」を意識して作り、その押し殺した感情の奥に深みがある街である。そうした環境で生まれる人間ドラマも、かならず存在するはずである。

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