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作風から遠ざかり、観客と一番近い位置へいく妻:『魂のジュリエッタ』


※注意 この文章を読む際はネタバレ等、核心部分への言及があります。個別に判断したうえで、読んでください


混沌の中の「生け贄」

 フェリーニ映画の男性は女性を追いかけ、その俗っぽい欲さえも映画芸術に落とし込んでいたが、作中の女性は『8 1/2』のサラギーナをはじめ、豊満な肉体と強い主張を持つ、我の強い女性を描いてきた。

 一方で『道』でジェルソミーナを演じ、実生活でフェリーニに妻であったジュリエッタ・マシーナはそうしたフェリーニ的な女性とは対照的な存在である。童顔かつ小柄なジュリエッタが演じた役どころは、『道』では粗暴な大道芸人のザンパノに虐げられ、『カビリアの夜』では男にたぶらかされる娼婦と、ぞんざいな扱いをされてきた。


 結婚15周年の記念日、静かに夫を待つジュリエッタのもとに、夫は大勢の来客を連れてきてしまい、その騒々しさにジュリエッタの平穏はかき乱される。いかにも「フェリーニ的」な混沌が家の中で繰り広げられるなかで、ひっそりとジュリエッタは静かに鏡の中の自分に「泣いたりしてはダメ」と言い聞かせる。

 激しく雄々しい混乱を芸術とするフェリーニ映画において、ジュリエッタは常に「生け贄」であった。だが一番観客に近い立場を、フェリーニ映画の中で演じて俳優でもある。もの静かなジュリエッタは圧倒的なフェリーニが作り出した世界において、観客と「一緒に困惑する」役どころなのである。


セックスから遠ざかりたいという欲望

 夫が寝言で知らない女性の名前を呟いてからというもの、ジュリエッタは過去のトラウマやセックスの暗喩が複雑に絡まりあった虚実ないまぜの、激しい色づかいの世界に巻き込まれる。フェリーニ初のカラー作品であるが、作品で色調をつかうという欲望が爆発しているかのようにも見える。

 雑木林でのシーンは象徴的だ。ジュリエッタが質素な印象のストローハットで散歩する中、行き交う女性たちは極端につばの広いと帽子とけばけばしいドレスを、厚化粧と共に身に纏っている。そうした女性のひとりであるジュリエッタの母から、「化粧ぐらい覚えなさい」とたしなめられる。


 ジュリエッタは夫しか男性を知らず、夫以外の男性に心を動かされても、幼少期のトラウマがジュリエッタの心を硬直させる。尼僧学校の生徒だったころ、学校劇で火あぶりの刑に遭った殉教者の役を演じた時のものだ。

 教員でもあった叔父に寸前のところで、「子供になんてことを教えてるんだ」と止められる。だが夫を愛するジュリエッタは、夫への不貞が完遂されなかった火あぶりに直結するように捉えるようになってしまう。


  『甘い生活』の回でも書いたように、フェリーニは男女の仲やセックスを題材にしつつも、直接的な濡れ場は映してはいない。この作品ではインド系と思しきハンサムな男とベッドで二人きりになった途端、火あぶりの幻想ののち、足早にベッドから逃げていく。セックスから逃げてきたフェリーニが、「物理的に」セックスから逃げるシーンを撮っているのだ。

 性欲を含めたむき出しの欲望を、『8 1/2』での風呂場のシーンをはじめ、フェリーニは映画で表現してきたが、対をなすかのように、粗野でおどろおどろしい部分から逃げたいと思うのも、人間の欲求として自然である。そして濡れ場を描けなかったフェリーニ自身にオーバーラップするものがある。


ジュリエッタは死なない

  心身共に疲弊しきったジュリエッタは、ラウラという少女の幻想を見る。尼僧学校の同級生で、学校劇に出演する際も舞台袖に来ていたが、その後自ら命を絶ったようだ。

 ジュリエッタはラウラから「私の所へいらっしゃい」と誘惑される。だがジュリエッタは応じない。勇気をふり絞って、過去と決別する決心をし、生きながらえた。

 『カビリアの夜』では、ジュリエッタが演じた娼婦は男に騙され、森の奥深くの湖畔で全財産を奪われる。男に「こんな人生はもうウンザリ 突き落として」と哀願するが、殺されも自ら死を選ぶこともせず、自らの足で道路にもどり、楽し気なパレードに遭遇するハッピーエンドを迎える。

 たしかにフェリーニは妻であるジュリエッタ・マシーナを混沌のなかの「生け贄」とし、虐げられる役回りを与え続けた。だがそれはフェリーニという稀代の芸術家と我々観客を結びつける、ある意味では一番重要な役であり、なにより根底にある部分では、ジュリエッタを肯定するのをやめなかった。


参考文献:
ジョン・バグスター 椋田直子=訳「フェリーニ」 平凡社1996年



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