見出し画像

90年代に本格化する小学校英語導入の議論

 1990年代に入ると小学校英語をめぐる政策論議が本格化する。1992年から研究開発学校において小学校英語の実践が始まる。

 1990年代の第三次行革審において小学校英語に関する議論がなされ、1991年に「多様な初等教育が行えるよう学習指導要領に基づく教育課程の運用の弾力化を図る。例えば、小学校においても英語など外国語会話の特別活動を推進する」という提言がなされた。これまでの小学校では全国一律で英語教育を排除してきたが、これからはこうした画一的で硬直化したカリキュラムを改めるべきだという。行革審は自由化・規制緩和が基調化されており、小学校で英語学習を認めないことは戦後教育の画一性・硬直性の象徴として扱われていた。

 1992年、鳩山文部大臣は英語の授業を研究開発学校で行うとした。まだ公立小学校で教えることは「逸脱」だったため、特別措置の中でのスタートだった。

 その後1996年度は一気に35校が指定され、全都道府県に研究開発学校が存在することになった。それから、2000年度までで68校が研究開発学校を経験した。

 この頃の研究開発テーマでキーワード検索すると、「国際」への言及数が多く、6割近い学校がテーマを含めていた。実験段階の小学校英語は国際理解教育と強く関連づけられていた。

 小学校英語に関する議論は80年代まではおもに児童英語教育者の内側にとどまっていた。しかし90年代に入り、議論の輪は英語教育関係者や学会、そして一部論壇にまで広がっていた。

 大修館書店刊行「英語教育」の見出しを見る限り、90年代に入ってからの小学校英語・児童英語に関する記事は80年代の三倍に、2000年代は10倍弱にまで増える。ただしこの時期の論調は賛否両論だった。

 2002年度の学習指導要領は学習内容の三割削減という「ゆとり教育」で知られる。これの審議過程においては、英語教育の重要性に否定的な意見はなかったが、導入を強く推進する委員もいなかった。「ゆとり教育」の大枠の中で子どもへの学習負担への配慮がみられた。

 1996年の中教審第一次答申では、公立小学校の教育課程内で英語教育を扱うことを妨げないが、教科として一律には実施しないという。

 さらに小学校英語は「総合的な学習の時間」を利用する形での導入であった。同じくこの改革の目玉となった情報教育や環境学習も、総合学習で取り扱うことになった。

 この時、委員の多くは小学校英語が教科扱いされることに強い警戒感を持っていた。

 この決定によって小学校教員や保護者の英語熱が暴走し、英語の知識を教え込んだり、技能のトレーニングに勤しむようになっては、ゆとり教育の理念を毀損しかねない。

 さらに総合学習の理念=「各学校が実情に合わせて主体的に学習テーマを設定する」ことは骨抜きにされてしまう。

 小学校英語はあくまで教科ではなく遊び感覚で英語に慣れ親しむものだという考えであって、英語に関して深刻な格差は生まれないと見ていた。

 しかし、この10年後の2008年、小学校卒業生の英語力格差が問題視され、その解消のために小学校英語の必修化が決定されてしまうのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?