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伏見地震をめぐる秀吉からの人心の離反、富士山噴火、津波避難ドキュメンタリー

 秀吉のもとに真っ先に駆けつけたのは細川忠興。救助隊を連れず、一人で疾走してきた。しかし秀頼を狙った大坂夏の陣では、豊臣を猛烈に攻めた。

 加藤清正は足軽二百人に梃子を持たせ、秀吉救出の準備をした上で倒壊した秀吉の御殿に二番目に駆けつけた。しかし加藤の家は潰され、徳川幕府はその領地を細川家に与えている。

 伏見地震が来た後、秀吉は崩れた伏見城をもっと豪華に再建し、朝鮮に再度攻め入ると命じた。地震によって豊臣から徳川へ人心が移り始めた。

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 富士山の最後の大々的な噴火は1707年。江戸の降灰は11月23日より降り出し、12月9日まで降り続いた。この間は昼間にも提灯にて諸用を足したという。南海トラフ・相模トラフの大地震13回のうち、5〜6回については、富士山がほぼ同時、もしくは25年以内に噴火している。大地震の前に噴火したのが二回、大地震ののちに噴火したのが三〜四回である。記録によれば、富士山の中は9月時分以来、毎日余程の地震は幾度もあった。ことに十月四日から強い地震が多く、一日の間に十度二十度少々の地震は数知れなかった。しかし麓の里には地震もなかったという。

 駿河区下島地区は1754年の安政津波の時には4.5メートルの津波がこの地域を襲ったという。1707年の宝永津波の高さは5.5〜6メートルと推定できる。

 1707年の宝永地震はM9以上だと言われるほど日本史上最大級の地震である。記録の残っていた秋田藩には、地震のために天水桶の水がこぼれたという。天水桶は将軍様へのご機嫌伺いの客観的な振動の目安になっていて、概ね震度4以上でこぼれるという。

 宝永地震の揺れは長かったが、江戸上屋敷の揺れは震度4ほどで無事であった。翌日は富士宮市付近を震源とするM6.6〜7の地震が発生した。巨大地震の直後に富士山周辺で強い地震が起き、そして富士山噴火という一連の流れを感じさせる。

 江戸の人々は、それから砂灰が降ってきた当初、それが富士山の火山灰とは夢にも思わなかった。しかし幕府と諸大名の間には平素から情報伝達の仕組みがきちんとあり、特に災害の被害状況などは、幕府は諸大名に詳しく知らせ情報を共有した。秋田藩江戸屋敷で最初の四日間は空気が振動したり、灰が降ったり、昼でも暗くなったりする異常現象の正体がわからなかったが、五日目に幕府の勘定衆から「二十三日に地震が三十度ばかりあり、富士山が鳴り出し煙が立った」という。

 記録によれば、噴火による振動は四日間、火山灰の降下が十二日間であった。降下が止み日常生活に戻ると、今度はガラス質の火山灰で目を痛めることになった。

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 柏井貞明という高知の武士が1707年の宝永津波に家屋を襲われ避難したことを克明に述べた記録がある。その一家は高知の砂嘴の先端部の地盤高2メートルの低地に住んでいた。家族は激震に襲われた。門外に出ると海が干上がっていた。辺りを遠望すると地面が上下して波のようにうねっていた。揺れがおさまると、柏井貞明の父は自分の母が裏庭にいるのを発見した。家族七人と奉公人の全員が無事合流できた。

 「孝」が重要視されていたこの時代である。祖母は「これは『なや(地震)』というものだ。こういう時は藪に入るものだ」といった。その言葉に重みを感じた一家は家の北の藪に入った。しかしこの地のような海辺の低地では一刻も早く高台へ移動しなければならないのは明白だった。その時「大浪が市中に入るぞ。山に入れ」と叫ぶ声を聞いた。柏井家は山に向かった。ところが先祖代々の刀を家から取り出そうとして12歳の兄がその作業にあたり、取り出した重い刀を12歳と9歳の兄弟が背負ってようやく逃げることになった。

 貞明の一家は約2キロ先の仁井田という村の山に向かった。途中の1.5キロ先には二本松という小高い場所があり、そこは海抜11メートルである。だから大人の足で約三十分歩けばその安全地帯に逃げ込めるはずだった。

 しかし「孝」を重んじる武士の父親は老いた祖母の手を引き、歩くのが最も遅い老婆の歩みに合わせて避難を始めた。息子たちは重い刀を持たされ、奉公人は二歳児を抱くように指示して逃げ始めた。

 仁井田の山を目指して1キロ余り歩いたところで、百メートルほど後ろに黒い波が迫っていると周囲の悲痛な声が聞こえた。それは人々の足元に溢れてきた。この時貞明の一家は海抜十メートルのところまで逃げていたが、あっという間に津波が頭上まで来てみんな溺れた。貞明は必死になって生垣の木にしがみつき、水に耐えた。流れる板戸に乗り移ろうとして失敗し波の中に沈んだが、そこへ流れてきた人の脇差を掴んで離れなかった。それを見れば、実の父親だった。

 父親は幼い妹を背負っていた。津波が肩くらいまでになった頃、祖母が破壊された家屋のそばで危うくなっていた。そこに助けに行こうとするが背中に子を背負っている。そこで仕方なく、父は背負った数え5歳の娘を波中に投げ捨てて波を凌ぎ、かろうじて母の元に至った。

 生き残ったのは疲れ果てた貞明と父親と祖母の三人だった。しかし津波第二波が間もなく来る。10月28日の気温は低い。第二波到来の危険を感じた父は、祖母に山に逃げようと勧めるが祖母は観念すると言い出した。9歳の貞明がしぶる祖母の手を引き、よろよろと歩き出した。歩けないのに背後から「津波が来るぞ」の声がかかる。その悩みと言ったら言いようがないと述懐する。

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