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愉快な不確定要素、宝籤的愉しみ

ずっとだらだら書いていた小説の締切が、今月末に迫っている。規定枚数に全く足りず(月初の時点で、最低必要枚数の半分以下だった)、こらあかんこのままじゃまじでまにあわんと焦った末、足りない枚数から必要な文字数をざっくり計算し、締切までに使える日数(一日中予定がある日や旅行の予定がある日はおそらく無理なので、それ以外の日で挽回する所存)で割って、毎日この文字数は必ず書くと決める作戦に打って出た。この初の試みは思いのほか功を奏しており、今のところ快調に目標文字数をオーバーし続けている。これが出来るならもっと早くからやっておけという声が聞こえそうだが、返す言葉もない。

わたしは凡人なので、天才たちのように神様が降りてくることはない。ただこうして真面目に自分の決めた規則を守り、書き続ける適性だけがある。天才の気まぐれを凡人の物量が超える日が来るか、そのまま有象無象に埋れて死んでいくか。どちらが先に来るのかは、わたしが死ぬまでわからない。ただ書き続けないと後者エンドが確定してしまうわけで、それはちとつまらない。少しくらい自分の人生に愉快な不確定要素というか、宝籤的な愉しみがあってもいいと思うのだ。

書くことがなくても書く。なにかしら捻り出す。そういう会社員的訓練をずっと積んできた自負はある。良いテーマを思いつくまで待っていたら、わたしは小説を完成させられない。思いつかなくてもいいのだ。いまの自分が締切までに書けるものが、いまの自分の実力だから。手を止めてはいけない。自分の才能の無さなどという曖昧なもので削がれてはいけない。ただ書き続けることだけが、わたしに出来ることだ。自分に期待も不信も抱かず、愚直に書き続けることが。

そうしていくうち、自分の知らない場所に連れて行かれることがある。わたしはこんな感情は知らない、こんなことは一度も考えていない、これは誰だ。
自分の作為を超えた作中の人物の言動を目の当たりにしたとき、わたしは慄き、また、歓喜する。宝籤のごとき新人賞を受賞せずとも、読者に酷評されても無視されても、この歓喜だけは残る。強いて言えばその歓喜のために、わたしは書いているのかもしれない。

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