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自分の頭が動く「問い」を立てる

今、シン・ニホンアンバサダー養成講座を受けている。毎回とても楽しい、面白い議論ができている。今回は、いつも以上に感情が揺れながらも新たな視点を得られたと思う。

ネガティブな側面をもつ発言で場に水をさす意味

7~8人のオンラインでのファシリテーションはなかなか大変だった。3人くらいなら慣れていたが…。さらに、本を理解することが(意図せず)強調されてしまった問いによって、拡散していけそうな考えをきっとそれぞれが持っていたと思うけど拡散しづらくなっていった。自分の場合は、議論の中で正解を知ってしまい、それに引っ張られた。引っ張られたというより、思考停止モードになったんだと思う。自分なりの考えたことはあったから言いたかったけれど、ちょっと逸れているからやめとこ、それよりみんなに言ってもらって何とかファシリを終えようモードになっていたかも…。

そのあとは悶々とした、何とも言えない気持ち。「自分のファシリあかんかったな、やっぱやらなきゃ良かった」とネガティブ思考になっていった。多分このままだったら、ネガティブな体験として積みあがったと思う。でも、「窮屈ではありませんでしたか?」という問いかけではっとした。

あ、これや!

ファシリのスキルもあるけれど、拡散しづらくなったことでやりづらくなった自分がいた。正解からずれてはいけないと無意識に考えていたんだと思う。言語化していただけたことで思考停止モードから抜け出し、なんで自分が悶々とした感情を抱いたのかがわかってきた。やっと頭が動き出した(遅い…)。

そのあと、『今回の問いで本の理解が深まったか』という問いについて。正直深まったかどうかは微妙だった。この要因はいくつかある。まず、本全部の理解なのか、今回読んだ章なのかわからない。次に、自分が本をしっかり読み込めてないし整理しきれてないことが明らか。そして、「深まる」とはどういう状態なのか擦り合わせられていない。

また別の引っかかりも見つけた。

「正解」をみんなが知ってしまったことで、議論が「目に見えるもの」の話になっていったこと。『文化』の話に関する流れがあったけれど(アウトプット目的だから説明省略)、自分にとっては「目に見えないもの」も『文化』じゃないかと違和感があった。本の中で、本当に「目に見えない」文化は含められていないんだろうか?そんな疑問が浮かんでいたから、率直な感想として意見を共有した。

そのあと、場の空気に反して水をさす(ともとれる)発言をすることに勇気はいらなかったか、という質問がある。相手とこれからも付き合いたいと思っていること、言っても大丈夫な場がベースにあるから言えることだと分かる。

「理解が深まった」という流れになっている場に、「微妙、よくわからない」と言った自分の発言も、「水をさす」のに似たようなことだったのかもしれない。正直なところ、狙って発言したわけでなく、自分の行き着いた考え、悶々とした感情をしっくりした言葉で表現できること、これを話しておきたかっただけで一緒にはできないかも…。言っておかないと消化しきれないと直感したから。やっぱり直感も大事にしてあげていいのかなと思う。

でも気をつけないといけないのは、ネガティブな側面をもつ発言によって、場の空気が一気に変わることもあると自覚しているかどうか。

今回はいい方に転んだと思う。それはみんなが真剣に聞いてくれていたから。このやりとりから、狙って議論を拡散させることはできる、無自覚でやっていないか、ということを考える時間がとれて良かったと思う。

場によって頭の動き方、視点はやっぱり変わる

今回、「目に見えないもの」だってあるよね、その扱いはどうなの?という疑問を議論の場に投げ込んだ。仕事柄、そっちに意識が向くからというのはあるかもしれない。

でも一方で、同じ職種で話をしているときには真逆のことを話したり感じている自分もいる。「目に見えない」認知や感情を、「目に見える」ものとして扱うために「行動」に注目すること、「目に見える」ものとして扱うために数値化していくこと。最近これが大事だと改めて思っているからよく言っているんだけど、議論の場では真逆なことを指摘していて、あれ?と思った。

どの場にいるかで、自分の頭の動き方は変わるんだなあと実感。

理解と気付きのバランス

読書会には、本の内容を理解する目的と、本を通して気づいたことを話したり想像を膨らませたりする目的、両方あると思う。そんな話もしていた。

読書会を開催する立場でもあり、参加者にもなる自分は、どちらかというと、内容理解より相互作用によって自分の中に生じる「化学反応」、つまり気付きを求めているのかなと考えていた。というより、気付きを得るという土俵でなら自分も喋れるかなと。

理解が目的の議論となれば、自分みたいに本を読むのが遅くて理解にも時間がかかるから途中で追いつけなくなる…。「ちょっと待って!こういうこと?」と言える勇気が持てなくて、分かった気になって終わるのだけは勿体ない。でも、理解するための話の中でも「こういうことか」と腑に落ちる体験、新たな発見もある。理解の中にも気付きがあるのかなと。二項対立というわけではないという話は確かに挙がっていた。

ちょっとだけ気付きに重心を傾けた頭の動かし方が、自分にはしっくりくる。一緒に読書会をする人がいるなら、自分だけで読んだときの理解度を少しでも上げられるように助けを得ながら頭を動かしたい。そして、1回限りの相互作用で生まれる気付きがたくさん生まれるような問いを考えられるようになりたいなと思う。

(学び直しになっているかわからないけど、印象に残る回だったから書き残しておこう)

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