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昭和の小風景 #1

 子どもも大きくなり、あまり変化のない毎日を送っていた頃だった。近くにカラオケボックスなるものができたと娘に誘われた。歌うのは好きだが音痴なので人前で歌うのは気が進まない。けれど娘とならまあいいかとも思ったし、最近あちらこちらにできてきている『カラオケボックス』というものにも興味があった。
 カラオケ店の階段を上がって、受付をすると個室に通された。
「飲み物は何にする?」
と娘がメニューを手渡した。そのカラオケ店はドリンクを頼まないといけないシステムらしい。コーヒー、紅茶などいろいろな飲み物が並んでいる中で『ピーチフィズ』という文字が目に入った。そしてふと初めてお酒を飲んだ日のことを思い出した。

        *  *  *

 昭和の東京オリンピックの翌年、私は二十歳になった。『大人』と呼ばれる年になったが、実感はない。身近に感じる最初の違いは『お酒が飲める』ことだろう。映画や小説では、大人の女性がバーでお酒を飲みながら楽しそうに過ごしている。家でも男たちが集まってお酒を飲んで盛り上がっていることがある。『お酒』にはそんな効力があるのだろう。とても興味があったが、二十歳になったばかりでそんな場に混じる訳にもいかないし、かといって一人で飲む勇気もない。なによりも、『お酒』そのものよりも、映画の中で素敵な女性が大人びて見える『バー』というものに行ってみたかった。きっと、映画のワンシーンのような特別な気持ちになれるに違いない。そう思ったが、自分を誘ってくれる男性など思い当たらなかった。そこで、ふと8歳上の兄が思い浮かんだ。

 兄は、人付き合いが良く仕事もバリバリこなしていた。すでに2児の父となっているが、事あるごとにバーというところに飲みに行っていた。兄に頼んでみよう。夜の大人の世界が知りたくなった私は
「一度バーに連れて行ってよ、社会見学に」
とねだってみた。
「おお」
 兄は突然の言葉に意外そうな顔をしていた。忙しそうだが言っておけばまた時間が取れたときに連れて行ってくれるかもしれない。私はそんな風に思って楽しみにしていた。

すると数日後兄が
「車に乗って!」
といきなり言った。
 車! 兄は白い大きな車を持っていた。当時車のある家は珍しかった。20代の若者が所有しているなどなおさらだ。兄は時間があるといつもその車をピカピカに磨いていて、家族も乗せない程大切にしていた。そんな車に乗せてくれるという。まるで映画の中のお姫様がロイヤル・カーに乗るようなイメージと重なった。私は襟と手首にフリルが付いた黒地に花柄のワンピースを着て、ウキウキしながら助手席に座った。
 30分程車を走らせると兄は街灯もない空き地に車を停めた。そこからすぐの所にひっそりとした静かな佇まいの店があった。もっと賑やかな場所を想像していた私は拍子抜けした。オープン前だったので煌びやかなネオンや電灯もなかった。

 兄に続いて中に入る。薄暗くてハッキリは見えないが、店内はそんなに広くはなかった。入り口近くのカウンターは、右側の壁に沿って奥まで続いていた。8席位ある高めのイスの真ん中あたりに、兄が座った。私は兄の横の席に腰掛けた。若くてオシャレなママを想像していたが、カウンターの中には化粧気のないふくよかな叔母さん似のママがいた。兄はママに
「妹や、初めてやで口あたりのいい物を作って」
と注文した。
「じゃあ、ピーチフィズね」
と言ってママはシェーカーでカクテルを作ると、三角のグラスにピンクの飲み物を注いだ。三角グラスの足元は、細くて折れそうだ。恐る恐る持とうとすると兄が
「親指と人差し指で持って、薬指で中から支えて」
と教えてくれた。
一口飲んだピーチフィズは甘かった。確かに口当たりがよい。
「時間外に無理言うて悪かったなぁ」
と兄が謝ると、ママは
「いいの、いいの。こんな若いお嬢さんを見たら、みんな声をかけたくなるわ」
「店に迷惑をかけてもあかんしなぁ」
 兄がそういってカラカラと笑った。それを聞いた私は、期待外れと安堵の念が入り混じっていた。映画ではバーでお酒を飲む若い女性をちらちら見る男性たちが映し出される。そんな気分を味わってみたいという気持ちが心の隅にあったからだ。

       *  *  *

「ピーチフィズ」
 娘にオーダーをお願いすると、個室の電話からフロントに頼んでくれた。
 昔独身時代に飲んだ味が忘れられず、こんなところでそれが飲めるのが嬉しかった。来て良かったと思った。
 兄と行ったバーは一杯でも高かったと思うが、ここでの飲み物のおかわりは無料らしい。
娘の歌を聴きながら、初めて飲んだピーチフィズを思い出して何倍もおかわりした。
 兄に連れて行ってもらったときは、一杯だけだったからなのか、少し緊張していたのか『いい気分』というものを味わえなかった。娘がいる安心感もあったと思う。こんなに飲んだのは、初めてだ。正気と酔いの間を行ったり来たりの普段は味わえないふわふわした最高の気持ちだ。これが『いい気分』になるということか! 

 ほろ酔い気分のまま娘の運転で家に帰ると主人が待っていた。フラフラと歩く私の姿を見て娘に
「どんなけ飲んだんや?」
と呆れていた。そして、娘と一緒に部屋に連れて入ってくれた。くずれるように床に横になる。主人が娘に
「飲みすぎんようにちゃんとみててくれな」
と注意するのが聞こえた。まるで、保護者にいうような口調だ。ああ、でも娘も二十歳。子育てが終わって、次は娘に頼っていく時期が来たのかなと感じた。

 私が酔ったのは後にも先にもこの時一回きりだ。本当はまたあんな気分を味わいたいと思うが、その機会もない。常習ではない憧れがあるからいい思い出なんだと思っている。
 今は土曜日毎に娘家族と夕食をしている時、たまに酎ハイやノンアルコールを小さいコップ一杯飲む程度である。

#ほろ酔い文学

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