立春の日に
陽ものびて、庭先の梅もポツポツと咲き始めて明るい兆しを感じられる立春の方が、元旦より年初めに相応しいな…と思う。
昨夜は、例年通りに豆撒きをして、恵方巻きを食べて、歳の数+1粒の豆を食べた。一掴みで年齢分の豆を掴めると幸運があると聞くけれど、年齢のせいか5粒足りなかった。子供の頃からの慣習で、幼い頃は指先で摘んでいたのが今ではコレでもかっ!と掴んだところで自分の年齢分まで達しないのが悲しいところ。それでも、無事に昨年の節分から1年過ごせたことを嬉しく思った。
また、『一年の計は元旦にあり』と聞くけれど、私は立春を年初めとして、この先一年の事をアレコレ考える。何故なら、長男の嫁&本家の嫁は、正月は忙しい(笑)今年は立春が休日にあたったのでゆっくりと現状やこの先を考えた。先ずは、昨年と同じように今年もニュースは国内外チェックして正確な情報は自ら取りに行け、を心に留めて安全第一で過ごしていきたい。しかも、毎年キャッチフレーズも決めている(笑)今年は『狂気の世の中を正気で暮らす。』にした。
政治も企業も芸能界も恐ろしいくらいゴタゴタ続き。ザックリ言えば権力と金の暴走で、正気の沙汰とは思えない。それを批難しつつも心の隅で『まあ、これくらいのこと有るとは思っていたけどね…』と聞き分けのよい子供のような私がいる。権力の下で庶民は小さく、小さく暮らしている。せめて、日々の暮らしだけは譲らずにいたい。ヤバイことには『それ、ヤバイだろう。』と損得抜きで思える正気さを持っていたい。切実な日々の生活のなかでも『私だって、暮らしに贅沢を招き入れたい。』と率直に思える自尊心を無くしたくない。
そして、この詩が実感として共感出来る世の中になってしまった。しかも、この詩に登場する小さな時計屋さん、小さな釣り道具屋さんは、もう私の暮らす町からは消えている。
茨木のり子の静かなる鮮烈さを思う。どうでもいいけど、茨木のり子と宮本浩次は同じ誕生日なんだよな…と思い出す。ファンの贔屓目だろうか、カッコよさが似ているな…とも思う。この詩の『萎縮することが生活なのだと思い込んでしまった村と町 家々のひさしは 上目づかいのまぶた』に心が痛くなる。エレカシ宮本浩次はもっと露骨に歌う。
あきらめきった アホウヅラで1年を過ごすことにならないように心して過ごしていきたい。
そして、数日前からモヤモヤが取れないことがある。ニュースで知った漫画家の訃報。ニュースでの内容しか分からないので、経緯については憶測でしか語れない。ただ、公に残した最後の言葉がTwitterでの「攻撃したかったわけじゃなくて。ごめんなさい」と知って『何でっ?』と思った。何で、ごめんなさいと言うのだろう?何が、ごめんなさいと言わせてるのだろう?ごめんなさいと言える気遣いのある人だったから、こんなことになってしまったのか?この方の漫画を読んだことも、ドラマを見たことも、漫画家の方のことも何も知らないけれど、理不尽なことにごめんなさいの言葉を残してこの世を去っていくなんて余りにも酷じゃないか。このことだって、結局はヒットさえすればイイという、資本主義では正論となる権力が持つ傲慢さが発端ではないか?と思ってしまう。
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