見出し画像

節分の夜に豆を食べたせいで…

 節分の夜に、歳の数+1粒の豆を食べた。皿の上に豆をひろげてみると、なかなかの量だった。健康を願って食べるにも限度がある…。しかも、噛み砕いたカラッカラに乾いた豆のかけらが弱った喉を通らず、誤嚥性肺炎にもなりかねない。還暦を過ぎたら、このような縁起担ぎは無理だろう…。歳をなぞるように1粒、1粒食べていると、時の流れを感じざる負えない。アッという間だったけど、よくこの歳まで来れたなぁと思う。それに、年齢と共に、時の流れに対する体感が年々速くなっていることも感じた。40歳の時、友人と「人生半分来ちゃったねー」と話していたが、そこから10年も経たないうちに「江戸時代だったら死ぬ頃だよね」と、もう死ぬ話しになっている。40歳を過ぎると、時の流れの加速度は驚異的だ。この様子では還暦になる頃には「どーせ死んでる歳だし」とか言いかねない。50歳前後で死ぬ頃だ、なんて言葉が出るのは何故だろう?友人からの今年の年賀状には「1年、1年を大切に楽しまないとね!」とポジティブの中にフィナーレ感漂う言葉があった。みんな何となく感じている。健康で活動的に過ごせるのもそう長くないことを。ただ生きるだけならあと30年、40年あるかもしれないが、今までと同じような気力、体力で生活が出来るのは10年あるだろうか?と思う。ホルモンバランスの関係もあるのか、40代も半ばを過ぎると加齢が原因だと思われる身体の不具合が出始める。身体が老いに気付いてしまう。白髪や老眼、生理不順や不定愁訴、それに伴うメンタルダウン等々、女性の身体もなかなか大変だ。そうなると、ボンヤリと薄ら寒い老い先を想像してしまう。思い返せば、楽しいこと、辛いこと、充分に色々な経験をさせて貰えた。この歳で「人生の試合終了です!」との号令を受けても、甲子園での高校球児のように「ありがとうございましたっ!」と帽子を脱ぎ、一礼して感謝の気持ちで人生のマウンドを降りなくてはいけないと思っている。実際にはそういう気持ちにはなれそうにはないけど…。節分の豆のお陰で年末でもないのに、時の流れについて感じ入ってしまった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?