見出し画像

「ハーフ」である私の居場所

みんなは居場所ある?

私の居場所って難しい。
ありがたいことに、家はいつも安心できるところだった。
もちろん、嫌になることもあるが、いつも受け入れられる帰る家は今でもある。

でも、家の外に出たら外国人としてみられる。なぜなら、見た目が明らかに白人の要素が強いから。でも生まれも育ちも日本でもう20代。
もしくは、日本の文化に順応した外国人。
日本人からみたら、私は完全なる日本人になることは一切できない。その自覚はある。だからこそ日本人だと私のことを認識できない人のことを否定することは無い。むしろ、自分との見た目が大きく違う人を、同じ文化圏の人だと認識することは、日本ではなかなかないだろう。それはアメリカでも同じであって、いくら多様な人種が住んでいるからといって、「アジア系アメリカ人」「ブラック」といってそれらを区別する。皆同じ土地で生まれ育っていたとしても。

これは、私の新しい発見であった。私は日本でしか住んだことがないから、例えば、もうひとつの母国であるイギリスに行けば少しは見た目で馴染めるのではないかと思っていた。しかも、人種のサラダボウル、なんて呼ばれるロンドンに行けばなおさらだ。
ここで、思い出すことがある。小学生くらいの時に、ロンドンで同じ年の従兄弟の学校のお迎えに行った。そうしたら、従兄弟の友達が私を見るなり、「アジアから来たの?」と聞いてきたのだ。とても驚いた。なんていったって、アジアの要素が顔にあると言われたことがなかったからだ。
そうか、日本にいても外国人だし、海外にいても外国人なんだ。

つまり、世界中どこにいても「外国人foriegner」と私はなる。
居場所なんてないじゃん。

居場所は自分でつくるしかない

国、そして人種、または文化を単位として考えてしまったら「ハーフ」である私は居場所はない。
そんなの寂しい。
でも、最初に言ったように家は私の居場所だ。今はパートナーと同棲している。
彼は、日本人。だけれども、私を「私」として受け入れてくれ、
居場所をくれる。

どこにいるのか、ではなく「誰」といるか

だからこそ、居場所は国や土地などの物理的要素を指すのではなく、
誰、という人を指すのだと思う。
きっと、世界中どこにいても、家族そしてパートナー、もしくはこれから出会う、私を「私」として受け入れてくれる人がいる場所が、私の居場所。

こうして考えると、国、文化、人種をベースとして生きていたから辛かったのかな。
「人」をベースに考える。
それはハーフに限らず自分が自分であるために大事なこと。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?