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『一陣』第七章

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 蕎麦屋に入ってきたその女は、やけに目を引く容姿だった。取り立てて美人だというわけではない。いや、涼やかな細面の顔は確かに整っていたが、彼女を言い表すとき一番に出てくる言葉は、その鋭い空気だろう。子を守る熊のように刺々しく、緊迫した、必死な空気を纏っていた。紋治郎は昼間から酒をかっくらいながら、女から目を離せずにいた。その女が近づいて来たので、無意識下で緊張した。まるで賊と立ち会うときのように。
「もし、ここ、いいかい。」
相席の了承をとるさっぱりとした口調に、何を緊張したのかと少々決まり悪く思いながら頷いた。他にも相手はいるだろうに、わざわざこんな小汚い男のもとに来るとは、酔狂な。紋治郎は自分が鼻つまみ者であることを分かっていたので、不思議に思った。
「一人か。」
女と話してみよう、そうはっきり思う前に声が出ていた。
「そうだ。一人だよ。お前さんもそのようだね。」
転がる二本の徳利と、まだ呑みかけの一本をちらりと見て、女はそう答えた。
「江戸には様々な人がいるだろう。ここは初めてなんだ。ちょいと案内を頼みたい。」
そう続けられて、いよいよ変な女だと思った。紺地の絣に、桃色の博多献上をきりりと吉弥結びにしている。全く物怖じしない態度は、その胆力からくるというよりはむしろ、どうなってもよいという諦めに似た覚悟から来ているように思えた。
「俺なんかに聞くとは変わってらあ。他にも聞きやすい奴ァたんといるだろ。まあいい、どこに行きてえんだ。」
「どこ、というのではない。人を探している。」
「人か、そいつあ誰だい。」
「まだわからない。」
「……探してる人も分からねえんじゃ、探しようがないわな。謎かけみてえな話し方はきれえだ。」
女は笑った。
「いや、すまなかった。違うんだ。私が探しているのはね、私を鍛えてくれる酔狂な奴だよ。金さえあればそんな馬鹿な頼みも聞いてくれる、変な奴さ。お前さん、心当たりはないかい。」
紋治郎は迷った。主人がお取り潰しになってから、彼はうだつの上がらない浪人として江戸の町で燻っていた。しかし、剣術にも体術にも少々の覚えがある。これは何かの導きか。こんな変な頼みを聞くやつなんざ普通居ないだろう……俺以外に。日銭を稼ぐつまらない日常を思うと、ちょいとこの縁を結んでみようかという気になった。
「姉ちゃん、運に恵まれたな、俺ァ前は武士だったんだ。剣術にも体術にも少しばかり覚えがある。それに金ときちゃあ、この世で唯一信じられるもんよ。どうだ。俺を雇わねえか。」
女は切れ長の目を見開いた。そうしてくつくつ笑ったかと思うと、
「私の目もちっとは信じられるもんだね。実はお前さん、浪人ってやつじゃあないかと思ったんだ。……よろしくお頼み申し上げます。」
かしこまって頭を下げた。その所作は急に奥座敷の淑やかな娘を思わせる、育ちの良い優美なものだった。紋治郎はなにやら急に怖気づいてしまったのを隠しながら、乱暴に言った。
「とりあえず、ここはお前が出しねえ。」
残りの酒を一気に煽ると、女に勘定をまかせ、店を出た。何かが始まる。つまらない日々に少し張り合いが出来たようだ。
「お前、住まいは。」
店から遅れて出てきた女に聞いた。
「無い。お前さん、独り身だろう。私を置く気はないかい。」
若い娘からは到底出てこないであろう、あまりに投げやりな言葉にいよいよ紋治郎は呆れてしまった。
「どこからきたかは知らねえが、お前、よくそれでここまでたどり着いたもんだ……。そういや名前も聞いてねえな。俺は紋治郎だ。」
女はしばし考えた後、こう答えた。
「通、それでいい。」
偽名であることを隠しもしない物言いに、紋治郎はますます興味をそそられた。
「せめえ長屋だ。とりあえず帰(けえ)るぞ……お通。」
 
「お前、まったく見込みねえなあ……。」
受け身のとり方を教えた後、長屋の裏で何回か放ったあとで、無様に転がる女にそう言った。
「だ、だから教わりに江戸くんだりまで来たんだ。」
息を切らして女が言う。少々赤く染まる頬。それは疲れだけではないようだ。
「まあいい、目をそらさないところは良い。度胸はあるな。とりあえず受け身は取れるようになれねえとな。」
「どれくらいで私は免許皆伝かな。」
「あめえこと言ってんじゃねえ。十年じゃ利かねえや。」
「……どれくらいで私は確実に男を殺せるかな。」
人目が無いのをいいことに仰向けに倒れて息をつきながら、秋の近くなった高い空に視線を投げながら女は言った。
「……どんな男かによるな。」
「心得のある者じゃない。」
「それなら一年…二年くらいか。」
「そうか。」
詳しく聞きたかったが、紋治郎はそれ以上追求できなかった。追求させない女の空気に負けてしまった。先ほどは見込みがないと言ったが、根性と気迫はある。それがどこから来るものなのかは謎だが、これは役に立つだろう。
 裏通りを風が抜けた。女は汗ばんだ額を拭う。

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