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歩く人②

「歩くこと」について語っている人はいないだろうか?
ふとそう思ってネットサーフィンしていたら、こんな詩の一節を見つけた。

「ゆるやかな歩み、ゆるやかな音の移動、ゆるやかに溜まる疲労、ゆるやかな精神の発泡。ぼくらの生きている時間が地水火風の変化と物質的にからみあって流れてゆく状態を、もっとも鮮明に、ゆっくりと、しかし稲妻のような電荷をおびた尖鋭さをもって認識するためには、徹底した歩行以上にすぐれた経験が、はたしてあるだろうか?」
(管 啓次郎『狼が連れだって走る月』 「歩み去るチャトウィン」)
【※リンクはこちら⇒詩人の思考回路

この詩の一節は、歩いていたときに自分が感じ、考えたことがそのまま言葉になったものだと、すぐに理解した。(そしてすぐにポチってしまった)

ちょっと遠くまで散歩してみようという、なんてことない思いつきだった。
しかし「ゆるやかな歩み、ゆるやかな音の移動、ゆるやかに溜まる疲労」を、まさにその言葉のままに感じながら、ただまっすぐに、どこまでも歩いているうちに、それが自分に明晰な何かをもたらしていることに気がつくことになる。それに加えて、歩くことはこれからの自分のライフワークになるだろうという、確信めいた思いも。

自分の言う「散歩」というのは言葉の擬態でしかなく、もちろんそれを意識して自分は使っているのだけれども、詩の中の「徹底した歩行」という言葉は、自分の「散歩」がその擬態を解いたときに剥き出しになる姿を的確に言い表していて、要するにそれは普通の歩行ではなく、徹底した歩行である必要がある。

歩いている間に心に浮かんだことをスマホにメモしていた。それらもいずれ書いていきたいと思うけれども、一つは歩くことが教える人間の時間について。身体の時間、という言葉を自分はメモで何度も使っている。

「ぼくらの生きている時間が地水火風の変化と物質的にからみあって流れてゆく状態を、もっとも鮮明に、ゆっくりと、しかし稲妻のような電荷をおびた尖鋭さをもって認識する」(上記引用より)

この認識は、歩くという行為が持つ身体性によってもたらされる。人間にとって一番身近な自然であり、一番身近な物質は、自分自身の身体である、という真実。徹底した歩行の痛みがそれを教えてくれる。

「頭」ではなく「足」で理解する。踏みしめる地面の硬さで、溜まっていく足の痛みで経験する。そういう世界があり、そういう時間があり、そういう状態がある。
そして身体の時間は、人間が思うよりもずっとゆっくりしか流れていない。

(つづく・・・、かもしれない)

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miuraZen
歩く人

描いたり書いたり弾いたり作ったり歌ったり読んだり呑んだりまったりして生きています。
趣味でサラリーマンやってます。


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