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2013年4月14日

ツクラの丘にあるシェルパの碑

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今日はネパールの暦では2070年の元旦である。特になにがあるというのではないのだが、朝起きるとみんなHappy New Yearと声をかけていた。

今日はツクラからロブチェに移動する。ヤックに荷物を積む光景は日常となった。うちのヤックドライバーは全員女性で、聞いてみるとそのうち一番若い眼鏡をかけて背の高いのがカミヤンジン・シェルパと言って我が隊のサーダー、ギャルツェンの妹だという。また、すでにベースキャンプに直行しているのがミンマヌルと言って、彼もサーダーの兄弟だ。しかし兄弟といっても父親が違う。いささか複雑であるが、これが古くからあるシェルパ民族の風習なのだ。

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女性が嫁ぐとき、そのお嫁さんはその家族に嫁ぐ、つまり兄弟同士でお嫁さんをシェアすることになるのだ。元々シェルパはチベット語でシャー(東)パ(人々)という意で、現在のヒマラヤ山脈の東側、つまりチベットから来た人を指す。そのため多くの文化、言語、そして風習をチベット民族からそのまま引き継いでいる。多夫一妻制もチベット民族から伝わる風習で、彼らの財産はヤックの数によって決まる。お嫁さんが嫁ぐ時、お婿さん側はその家の財産をお嫁さんの家族に分配、つまりヤックを分けなければいけない。兄弟が多いとそれだけ分配が多くなるのでこうした多夫一妻制ができたという。

また、放牧や交易を生業としていたためヒマラヤの山岳地帯で男性が命を落とす事も多かった。そのためお嫁さんが未亡人とならないためにこうした仕組みが生まれたとも言われる。いずれにしてもシェルパの親族や同じ出身地によって隊のシェルパが構成されるのは珍しくない。

シェルパは高所に良く適応していて、彼らの力なしではほとんどの登山隊は成り立たない。これは今も昔も同じだ。1970年、父がエベレストを滑った時も撮影機材やそのクルーを支えるために約800人のポーターとシェルパを雇用した。彼らによって装備の運搬やルート工作がなされた。しかし、この時アイスフォールの崩壊で6名のシェルパが犠牲となる。ツクラの丘を上がると、このときに犠牲になったシェルパ達の碑がある。ここを通るとき、父は必ずそれぞれ6名の碑に手を合わせる。

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今ではアイスフォールのルート工作はSPCC(サガルマータ・ポルーション・コントロール)のアイスフォールドクターとよばれる専門家が取り仕切っている。しかし、つい先日もアイスフォールを工作中の1名のアイスフォールドクターがクレヴァスに落ちて亡くなった。アイスフォールを含めたエベレスト登山を生業とするのは昔も今もリスクの高い仕事なのだ。シェルパ達に敬意を抱きながら僕も手を合わせる。ここから歩いて1時間弱でロブチェ到着する。ロブチェは現在建設ラッシュだ。この僅か数年で新しい宿が立ち並んだせいで昔馴染みの宿がどこにあるかも分からない。

ピンゾーさんの娘 サンデンもここロブチェに宿を経営しているが、すっかり周りを近代的な宿に囲まれてしまった。ロブチェはエベレストベースキャンプやカラパタールを目的とするトレッカーが必ず宿泊するところで、多くの場合、その行き帰りに泊まる事になる。ヒマラヤトレッキング事情のひとつに、小さな村で宿が少ないロブチェがこれまでボトルネックになっていた。慢性的な宿不足のため、宿を建てると必ず人は入る。これに目をつけたシェルパ達が次々と西洋風に宿を建てたのだ。今回、 僕達が入ったalpine lodgeも広くて綺麗な作りだ。ここではWi-Fiや発電もしている。そうなると益々ここでこれまで商売をしているサンデンが気になり、様子を見に行くと、サンデンのロッジも昨年増築したという、お客さんの入りも上々だ。良かった。


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