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2013年4月3日

ナムチェの長い一日

スライド1

前回のロブチェイースト遠征以来、今日は久しぶりのナムチェ滞在だ。何人かは朝早く起きて朝焼けのエベレストを見に行ったが、僕はゆっくりと朝を過ごすことにした。今日はのんびりと荷造りとショッピング程度ですまそうと思っていた。

朝食を食べた後、サクラロッジにデポしてある荷物を確認する。前回のロブチェイーストの遠征で今回必要と思われるテント、酸素、基本的なキャンプ道具はここにデポしていた。ここで、今回持ってきた荷物のリストと照らし合わせて過不足を確認する。五十嵐さんがしっかりと荷物のマネージメントを行っているおかげで、すんなり確認作業が終わり、これから僕たちのトレッキングと一緒に行く荷物、ポカルデでのスキー高度順化に使う荷物、そして本番のエベレストベースキャンプ直行に分けることができた。

そのあと、今日はあまり激しい運動は避け、ナムチェの買い物程度に済ませることにした。最近のナムチェは近代化していて、電気から物流までカトマンズよりもむしろ進んでいる。カトマンズでは本物と偽物が横行しているので、見分けをつけるのが難しいが、ここはエベレストを目指す本格的登山家の通過点であることから、むしろカトマンズよりも本物の店がある。

毎回僕たちが立ち寄る店「IME」もそのうちの一つである。ここのオーナーのツダムシェルパは毎年、米国ソルトレークで行われるアウトドアショーに出向き、自ら買い付けを行いナムチェまで持ってくる。そこに置いてある品物はとても信頼度が高い。僕たちもよく立ち寄る店で、小物からジャケットまで遠征の最終的に必要なものをそろえる。昨日、最初に立ち寄った時にツダムさんから夕食に誘われていたので、今晩はみんなで伺うことにした。

僕は買い物よりも、日本から持ってきたトレッキングパンツの裾が長かったので、友人のチミシェルパに同行してもらい、裁縫屋に連れて行ってもらった。ズボンを脱いでものの5分で足の裾、3センチほど詰めてもらった。かなりの手際よさに下手に日本で直すより早くすんだ。その裁縫屋を見るとあらゆるブランドのウェア類が置いてある。きっとここの裁縫屋さんが作ったものであろう。本物のブランドショップがある正面で堂々と類似品を作っているその姿にネパールらしさを感じた。

こうした疑惑リストの中にもう一つ加わったものがある。なんとスターバックスがついにナムチェにも進出したのである!物珍しさから僕たちはそこに足を踏み入れた。これが本物であれば、僕たちのスターバックス最高所地点記録更新だ。店に入るや否や、女性オーナーが案内してくれた。見ると曳いているコーヒーの袋にはスターバックスのロゴが書いてある。どうやら豆はスターバックス製であるが、それでもライセンスを本当にとっているのか定かではない。

コーヒーは普通においしかった。彼女はスターバックスに加えて、サウナやマッサージ、そして下の階のバーと手広く経営している。下のバーは「カフェダッフェ」といってエベレストを登った多くの人のサインがその店のシャツに書かれて飾られてある。

その中にエベレストからパラグライダーで下りた、バブ・スヌヴァとラクパ・チリシェルパのサインがあった。2人の名前は日本で元ドルフィンズのメンバーである扇澤郁(オオギサワ・カオル)さんから聞いていた。カオルさんは日本、いや世界を代表するパラグライダーのパイロットで世界大会でも何度も優勝している。そんな彼が一目を置いたのが、2人のネパール人がエベレストに登り、パラグライダーで降りたという快挙だ。その映像をカオルさんから見せてもらったことがある。エベレストの頂上から全速力で飛び出し上昇気流にのってエベレストよりも50mほど高いところを滑空していくそのさまは、最近の登山にはない痛快さがあった。

女性オーナーが言うには、その片割れであるラクパ・チリシェルパは今晩あたりもここに来るというので、夜にもう一度顔を出すことにした。

昼食は美味しいおうどんだった。付け合わせの野菜天ぷらが絶妙だった。お昼を食べると眠くなり昼寝をする。しかし、3時くらいに起きて「こんな事じゃいかん!」と思い、シェルパ友達のダヌルの家に行くことにした。ダヌルの家はナムチェからエベレスト街道を登った軍の敷地の目の前にある。そこでダヌルとその家族に歓迎を受け、お茶をごちそうになる。

しかし、それだけでは動き足りないので、さらにその上のシャンボチェにあるピンゾーさんの家まで行くことにした。ピンゾーさん宅は土でできたシャンボチェ空港の目の前にある。最近、家の中を改装してピカピカになっているのが自慢だ。ピンゾーさんの息子、チミは午前中ナムチェに来て僕の裾上げの手伝いをしてくれた。彼はロブチェにあるイタリアが作った観測所、通称「ピラミッド」で働いていた経験がある。彼の奥さんもイタリアの留学経験があり2人が作るイタリア料理は本格的だ。しかし、そのチミの奥さんと子供の姿がいない。聞くと、チミの奥さんは子供が幼稚園に通う年頃になったのでカトマンズに引っ越したとピンゾーさんが悲しそうに言った。

ピンゾーさんによると、最近の母親は何かとすぐにカトマンズの学校に子供を入れたがるという。このあたりでもヒラリーが寄贈したクムジュン学校やナムチェにも学校がある。クムジュンを卒業した人の中には医者、弁護士、パイロット、技術者まで幅広く成功した人がいるというのに、なぜわざわざカトマンズに行かなければいけないのかと、落胆するピンゾーさんはちょっと怒りながら言っていた。僕も同感だ。これが大学ならいざ知らず、幼稚園から空気の悪くて治安も不安定なカトマンズに連れていくより、ヒマラヤの山々に囲まれた広々としたこの大地で育ったほうが、体も頭もよくなるのではないかと思う。時間を見ると、まもなくツダムさんのロッジに招待された時間なので、すぐに下山を開始する。サクラロッジの手前でお父さんが上がってきた。お父さんも運動不足と感じて歩き始めたという。一緒にナムチェの外周を回りサクラロッジに戻る。

ツダムさんが経営するロッジは近代化が進んでいるナムチェでもひと際サービスが充実している。9年前からバス・トイレを個室につけた先駆者であり、ランドリーサービスも行っている。ここでの主な輸送手段がヤックという山奥であることを考えるとこれはすごい事だ。彼は元々クライミングシェルパをしていた。だが、1980年代頃にあまりにも登山で多くのシェルパが犠牲になるのをみて、これは自分の将来をかけるべきではないと思い、クライミングではない別の商売を行うことを決めた。

最初はエベレスト登山隊から登山後に道具を買い、それを中古として転売することを1982年から始めた。しかし1990年頃から多くの偽物が横行し始めると、これはおかしいと考え単身で渡米してアウトドアメーカーへ就職、裁縫から始めた。その後、本格的装備を米国やヨーロッパから直接仕入れ、IMEという店で業績を伸ばし、さらに、ザムリンロッジを経営するまでになった。彼の人柄ときめ細やかなサービスでビジネスは軌道にのる。

しかし彼は現在、ナムチェやヒマラヤ山麓周辺の子供たちがカトマンズの学校に行くことに憂いている。実際、自分の子供達はシェルパ語すら忘れている。カトマンズでは多くの勉強ができるかもしれないが、同時にシェルパの言葉や文化を失ってしまうのではないかと不安になったという。そのために彼は2010年からChildren’s Hostelsを開いた。これはターメやターモといった徒歩での通学が難しい場所に住む子供たちのために開いた全寮制の学校。4歳から12歳の子供を対象とし、宿泊施設や食事を提供して、先生たちが学業をみている。現在41人の生徒がいる。

もともとシェルパは順応力に優れた民族。交易の民であり数か国の言葉を操りながらも自分たちの文化を守っている。ツダムさんはこうしてシェルパの里であるナムチェからシェルパの流出を防ぐことが文化を守ることになるのではないかと考えている。ピンゾーさんもツダムさんも同じ事を懸念している。確かにナムチェの近代化は著しく毎年その姿を変えている。僕はシェルパがこうした変化を受けいれながら取り込んでいると思っていたのだが、実情はもっと複雑であった。今日はもっとゆっくりと過ごそうと思ったが、色々考えることの多い1日となった。




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