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映画ノート⑦ 三島由紀夫唯一のメジャー主演映画『からっ風野郎』

今で言うなら「マルチタレント」を気取っていたのか、文学だけにとどまらず評論、演劇、映画、歌手、ボクシング、ボディビル、極右政治活動、自衛隊体験入隊、民間防衛組織(盾の会)作り、軍事訓練など様々な分野に手を出しながら、右へ右へと行ってしまった三島由紀夫。                                                              

挙句の果てに、最後は陸上自衛隊市谷駐屯地におけるクーデター扇動後に割腹自殺。時代錯誤の右翼思想などに染まらずに文学の執筆に精を出していれば、喉から手が出るほど欲しかったノーベル賞に手が届いたかもしれないのに。 

                                                               さて、本題の映画の話です。                     三島由紀夫は文士にしては相当の出たがり屋さんだったらしく(上半身露出狂の気配もあり)、1959年、何と大映と主演契約! 翌年、この『からっ風野郎』で華々しく映画デビュー! 自主制作映画である『憂国』を除けば唯一の主演映画として有名です。

三島が、落ち目のやくざ朝比奈組の二代目に扮したやくざ映画。     ヒロインは、若尾文子。三島から堕胎を迫られ、暴力を振るわれながらもお腹の我が子を必死で守ろうとするシーンの演技は、もう惚れ惚れするほどの名演。                                                                                    

しかし、作品全体の出来はと言うと増村保造にしては、珍しく凡作。   そうなってしまった原因は三島由紀夫の演技力と菊島隆三他の瑕疵の多い脚本にあります。増村監督の演出にもいつものような切れがなく、あまりやる気が感じられません。

この作品を失敗作にしたのは、話題作りのためにずぶの素人をいきなり主役に抜擢した永田大映社長の責任です。小説家の三島に演技力がないのは、最初から分かりきっていた事ですから。                 東大の同期とは言え、三島の演技指導を一から押し付けられた形になった増村監督にしても本心では大迷惑だったはず。

若尾文子をはじめ、船越英二、川崎敬三、根上淳、志村喬、水谷良重などの必死のサポートも空しく、三島だけが浮きまくりで観るに堪えず痛々しささえ感じさせるほど。プロの演技派たちの中に一人だけ素人が混ざっており、しかもその素人が無理して主役を張っているという本来なら絶対にあり得ない構図。

棒読みに近い台詞と落ち着きのない目線、不自然な表情、ぎこちない演技等は最後まで改善されず、周りの共演・助演陣を名優で揃えたがために、かえって三島の大根役者ぶりが際立つという皮肉な結果になってしまいました。

増村監督もしごきに近い演技指導をしたようですが、さすがにダメなものはダメで、その後、大映との専属契約は自然消滅状態に。

主演が三島でなければ、もう少しましな作品になっていたかもしれませんが、脚本自体も一度没になったものを引っ張り出してきたという代物。

やくざ組織同士の抗争を描きたいのか、やくざの男と堅気の女との「純愛」を描きたいのかはっきりせず、結局どちらも中途半端に終わっている欠陥脚本である上に、突っ込みどころも満載。

例として、いくつか挙げてみましょう。

三島にレイプされた若尾文子が、その後すぐに三島を愛するようになるのがいかにも唐突過ぎます。彼女の心理過程が描かれないので、観ているほうは「ひどい目に合わされたのに、どうしてそうなるの?」と呆気にとられてしまうのです。

それまでに若尾が三島に好意をもっているような伏線でもあればまだしも、それもないのでは全く説得力がありません。これでは、今だったら女性蔑視として非難ごうごうでしょう。

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三島が敵役根上淳の幼い娘を人質として誘拐するのですが、見知らぬ男女の部屋に連れて来られても幼女が怯えたり、泣いたりせずに全く平静そのものなのも極めて不自然です。

先代に三島と兄弟同様に育てられた参謀役のインテリやくざ船越英二。彼が三島に対して抱いている親愛の情を「シンバルを叩く猿人形」(モンキーシンバル)で間接表現(擬人化)しているのはよいのですが、同じことを2回も繰り返すのは、くどくなっていただけません。1度だからいいのです。

朝比奈組と敵対する新興やくざ相良商会のボス根上淳とは上部組織の大親分の仲介で「手打ち」したはずなのに、なぜ、最後で根上が雇った殺し屋に三島が射殺されてしまうのかまったくもって意味不明。必然性がありません。

一部で評判になったラストのエスカレーター。これは明らかに前年に日本公開されたアンジェイ・ワイダ『灰とダイヤモンド』の主人公マチェックが、ごみ捨て場でもがき苦しみながら死んでいくラストシーンの二番煎じ。

最後をスタイリッシュに決めようとしたのでしょうが、堅気になってやり直そうとする直前のシーンとの対比が生きて来ないので、説明的になってしまったのは致命的。これも同じようなシーンがある『灰とダイヤモンド』とは正反対に、全く心に響いてこないのです。

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演出と撮影がひどい上に、絶命した三島が最後に呼吸をしているように見えてしまうのでは、どうしようもありません。

増村監督としては、この最後の見せ場に「ある寓意」を込めたかったのでしょうが、エスカレーターの上でただジタバタしているような演技しかできない三島に、最後は「こりゃ、だめだ。」と匙を投げてしまったようです。

三島由紀夫が主演しているという話題性以外にこれといった取り柄のない凡庸な映画ですが、警察と結託したやくざのスト破りや製薬会社が新薬の治験中に副作用で3人も死者が出ていることを隠ぺいしている等の社会問題も一応挟まれてはいます。

若尾文子ファンであれば、まあ一見の価値はあるかと。


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