「違憲立法審査権」を事実上放棄して日本の民主主義を破壊した最高裁の大罪
珍しく違憲判決を出した最高裁
とっくの昔に違憲立法審査権を放棄したような最高裁がつい最近、思い出したように違憲判決を出した。
最高裁は国を相手取って起こされた政治的影響の大きい行政訴訟などに対しては絶対に違憲判決を出さないのに、こういう「重大で高度な政治性を有しない」訴訟については、まるでアリバイ作りか「やっているふりパフォーマンス」のように違憲判決を出すのが笑える。こんな違憲判決が出たところで、別に政府は痛くもかゆくもない。
2024.07.12追記
最高裁が旧優生保護法賠償訴訟で違憲判決を出した。この種の訴訟では常に政権側に味方して来た最高裁にしては珍しい判決だが、旧優生保護法はどこから見ても完全に基本的人権を踏みにじった完全な違憲立法なので合憲判決や門前払いでは世論の強い反発を招く可能性が高いと判断したのだろう。
また、この法律は閣法ではなく、全会一致で成立させた議員立法なので違憲判決を出しても政権に対する打撃は少ないと考え、例外扱いにしたものと思われる。
異常に少ない日本の「違憲判決」
「違憲立法審査権」は、憲法第81条の「最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である。」という条文に基づいている。「一切の」とあるように法律だけでなく、最高裁は命令、規則又は処分についても幅広く違憲判決が出せる強力な権限を有する。
まさに憲法に基づいた行政を行わせるための「伝家の宝刀」!
違憲審査制度には大きく分けて「附随的違憲審査制」(米国型)と「抽象的違憲審査制」(ドイツ型)とがあり、前者は米国の他、英国やラテンアメリカ諸国の一部で採用されています。後者を採用しているのは、ドイツ、イタリア、オーストリア、韓国など。
「附随的違憲審査制」は何らかの事件が起きて該当する法律に問題が生じた時にのみ違憲審査を行う。対して「抽象的違憲審査制」は事件と法律とを切り離し、法律自体が合憲か違憲かを審査するものである。
米国の属国である日本は当然米国型を採用しているが、「在外邦人の投票権に関する」上記の記事によると「最高裁が個別の法令を違憲と判断するのは史上11例目」なのだそうだ(国などの「処分」に関する違憲判決数は10件)。
この違憲判決の数は、お手本とする米国の90分の1以下。戦後77年間で違憲判決がたったの11件というのは、驚きを通り越して呆れてしまう程の少なさだ。
諸外国の違憲判決数だが、ドイツでは戦後約60年間に600件以上、米国では連邦法、州法、条例について約900件、韓国では、27年間に違憲の疑いがあるとされたものも含めて約700件の違憲判決が出ている.
しかも日本で戦後初の違憲判決が出されたのは何と1973年4月になってから。「刑法200条(尊属殺重罰規定)が憲法14条1項に違反する」という法令違憲判決が違憲判決第1号。この判決が出るまで最高裁は、戦後28年間、一度も違憲判決をだして来なかったのだ。
砂川判決以降だけをとっても、数多くの違憲訴訟が起こされているが、この「11例目」という数字は、そのほとんどが合憲判決か門前払いかのいずれかであった事を物語っている。
最高裁の極端な「司法消極主義」
ほとんど常軌を逸したような違憲判例の少なさは、日本の最高裁が極端な「司法消極主義」を採用している事に起因している。「司法消極主義」を採用す根拠の一つとして内閣が提出する閣法は合憲かどうか事前に内閣法制局の厳密なチェックを受けているので、違憲立法は出来にくいという説がある。
しかし、第2次安倍政権で内閣法制局長官に安倍晋三のシンパ官僚に据替、「法の番人」であった内閣法制局を政権の下僕にしてしまった。これは「解釈改憲」と同様、内閣法制局の従来の法解釈を変更させて無理やり法制化してしまうと言う横紙破りの手法で、内閣法制局によるチェックは機能不全に陥っている。
安倍晋三が築いた腐敗・不正・無能の「2012年体制」下で出された法案の多くに憲法違反の疑いがあるが、違憲訴訟を起こされても最高裁は絶対に違憲判決を出さないと嘗められているので、「平和主義・国民主権・基本的人権」に明らかに抵触する憲法違反の法案が大手を振って法制化されている。
また、戦前の大日本帝国憲法にはそもそも違憲立法審査権がなかったので、敗戦前からの司法官は日本に違憲立法審査権なじまないと考え、意図的に「司法消極主義」を採用した節もある。後に出て来る「統治行為論」も行政府に有利に働く「司法消極主義」から必然的に生み出されて来た法理論である。
日本における違憲判例の異常な少なさは「司法消極主義」を遥かに超え、最高裁が三権分立を守る「伝家の宝刀」である「違憲立法審査権」を積極的に放棄している事を実証している。
日本を憲法ではなく「安保法体系」によって支配される国にした最高裁
それもそのはずで、1957年に発生した砂川事件の判決で最高裁が自ら「違憲立法審査権」を放棄した時点で、既に日本は「法治国家」である事をやめている。
驚いた事に、この判決で最高裁は憲法違反の軍事同盟である「日米安全保障条約」を守るために、それに抵触する日本国憲法の「平和主義」の方を逆に停止状態にしてしまったのだ。
砂川事件は1957年7月、東京都砂川町の米軍立川基地に基地拡張反対派が無断で侵入したとして7人が起訴された事件。1959年3月東京地裁伊達秋雄裁判長は、「駐留米軍は憲法前文と戦力の保持を禁止した第九条2項に違反し違憲」として全員無罪を言い渡した。
「日米安保条約」を違憲とした一審伊達判決に驚愕した日本政府と当時の田中耕太郎最高裁長官は、「司法の独立」をかなぐり捨てて裁判の詳しい経過や最高裁の討議内容を実質的被告側でもあるマッカーサー駐日米大使に逐一リークして対処方針を協議。
米本国の訓令を受けたマッカーサー大使からの「伊達判決の影響を最小限に抑え、短期間に決着させよ。」(安保条約改定が翌年に迫っていた)との指示を受けた日本政府は、時間のかかる高裁をとばして最高裁に跳躍上告。
1959年12月、最高裁は「憲法九条は外国軍隊には適用されず、戦力にはあたらない」とする無理筋かつ奇妙なロジックを展開すると共に違憲立法審査権を事実上放棄した「統治行為論」(重大で高度な政治性をもつ問題は判断しない)を初めて採用して、伊達判決を破棄、一審に差し戻した。この間、僅か9か月の異例のスピード審理だった。
これにより、以後、日本では最高法規である憲法より国際条約である「日米安全保障条約」が上位に立ち、国会よりも日米合同委員会での取り決めが優先する事になった。
この判決で、政治・軍事面だけでなく法的にも日本は米国の属国である事が確定した。
日本は憲法ではなく「日米安保条約」及び「日米地位協定」と付随する「密約」等の所謂「安保法体系」によって支配される国になった。今も月に2回秘密裏に開かれ、実は日本政府の重要政策に大きな影響を与えている日米合同委員会は、治外法権のように国権の最高機関である国会による「国政調査権」の埒外にある。
政治・軍事面だけでなく、日本が法律面、経済面などあらゆる面において米国の完全な属国である事は、以下の記事に詳述している。
「憲法の番人」であることをやめ、「政権を守る番犬」に成り下がった最高裁
この「最高裁砂川判決」以降、特に行政府を相手取った重要な裁判や訴訟は、ごく一部の例外を除けば、その殆どが「合憲」または門前払い(「違憲判断せず」)のどちらかの確定判決になっている。
その後も続いた「安保訴訟」(憲法九条違反)、「朝日訴訟」(生活保護費と生存権)、「恵庭事件」・「長沼ナイキ基地」訴訟(自衛隊と平和的生存権)、「米軍基地騒音訴訟」(平和的生存権)、「家永訴訟」(国の教科書検閲)、「原発差し止め訴訟」(人権侵害)、夫婦別姓問題(基本的人権)などがその代表例。
これらは、たとえ下級審で違憲判決が出ても高裁の段階で覆されることがほとんどで、上告しても最高裁では判で押したように上記のような「ツーパターン」の対応が待っている。
こうしたところにも、政治権力には極めて弱腰で自ら進んで忖度する反面、被害者や弱者には冷たい対応しかしない最高裁の「権威主義的体質」がよく表れている。
最高裁が行政に対する伝家の宝刀「違憲立法審査権」を事実上放棄した影響は極めて甚大で、最高裁が行政府の暴走に対するブレーキ役を果たさなくなったため日本の「三権分立」は完全に機能不全に陥ってしまった。
自民党の実質的「一党独裁」が長く続く中で国会やマスコミが監視・チェック機能を放棄した事で「行政権力」が年々肥大化。国会を差し置いて「国権の最高権力機関化」して暴走するのを誰も止められなくなっている。
自民党の実質的一党支配と独裁化を自らの法的役割を進んで放棄する事でアシストしているのが、民主主義の最後の砦であるはずの最高裁なのですから、最早腐っているとしか言いようがない。
「憲法の番人」である最高裁の役割は、憲法を国民の間に根付かせ、立法や行政において憲法の理念や条文に基づいた正しい政治が行われるように監視するのが本来の役割のはず。
ところが、実際にやっている事はこれとは真逆で、憲法の基本的人権や国民主権、平和主義、民主主義などの国民の諸権利が日本に「定着したり、機能したりしないように」歯止めをかける事で、「政権を守る番犬」と化しているのが外ならぬ最高裁の今の姿なのだ。
出来る限り違憲判決を回避したい政府と最高裁の思惑
違憲判決や国側の敗訴が当たり前のように日常化して国民の上に「お上」として君臨する政府の「権威」が失墜し、日本が「権威主義国家」でなくなるような状況には絶対にしたくないと考えているのは政府も最高裁も同じ。
「権威主義国家日本」を守るための方便として時に使われるのが、政府の「政治的判断」よる決着。地裁や高裁段階で国側が完膚なきまでに全面敗訴し、最高裁でも違憲判決を出さざるをえない事態が予想される場合には、「政治的判断」によって最高裁判決の手前で決着させるという姑息な手法。
最近の例では、原爆投下直後の「黒い雨」被害者たちが被爆者認定と被爆者手帳交付を求めて国を提訴した「黒い雨訴訟」(戦争による基本的人権の侵害)が、これに該当する。表向きは、広島高裁で全面敗訴した国側が上告しても全く勝つ見込みがないと、上告断念に追い込まれたもの。
この異例の上告断念の本質は、政府が「高裁判決は容認できない。」と言っているのを見ても分かるように、反省や温情、被害者に寄り添った決断のどれでもなく、負ければ国側が重大なダメージを受ける行政訴訟で国側敗訴の前例を作りたくない菅内閣の「政治的判断」だった。
このように検察が上訴断念に追い込まれても絶対に謝罪しないのは、「権力の無謬性」という権威主義の神話がが崩壊してしまう事を恐れているから。これは、最高裁も全く同じで、日本の司法は未だに権力を守るためには権威主義が必要と考えている。
「政治判断」を内心誰よりも歓迎し、胸を撫でおろしたのは外でもない最高裁だったはずだ。最高裁は(出したくない)国側敗訴判決(実質的な違憲判決)を出さずにすんだのだから。ましてや、自衛隊や安保条約等の重要案件での違憲判決など口が裂けても出したくないのが、最高裁の本音だろう。
過去には、「ハンセン病違憲国家賠償訴訟」でも時の政権の「政治的判断」により国側が控訴を断念している。
強まる政治的圧力の中で気骨の判決を出した二人の裁判官
1970年前後の「青年法律家協会員パージ事件」によってその一端が垣間見えたように、戦後、裁判所組織全体の「与党化」が、国民の目には見えない形で着々と進められてきた。
「砂川事件」で最高裁長官自らが「裁判官独立の原則」を破った事が悪しき前例となり、例えば「長沼ナイキ基地訴訟」(1970~)では、担当した札幌地裁の福島重雄裁判長に上司である平賀地裁所長が「政府に不利な判決を出さないように」何度も圧力をかけた「裁判干渉」の事実が明るみに出ている(平賀書簡事件)。
地裁所長による不当な圧力をマスコミに告発した福島裁判長は圧力に屈する事なく、自らの信念に基づいて「自衛隊違憲」判決を出し、判決文の中で初めて「平和的生存権」について肯定的に触れている。
「砂川事件」の伊達判決に続き、画期的な違憲判決が出された「長沼ナイキ基地訴訟」だっが、国側は即時控訴。例のごとく控訴審で高裁は「自衛隊は合憲」として一審判決を破棄。「平和的生存権」についても「裁判規範としてなんら現実的 個別的内容をもつものとして具体化されているものではない」と完全否定した。
福島裁判官はその後、地裁所長の「指示」に逆らって違憲判決を出した報復措置として裁判長を更迭、降格されて他県の地裁に左遷された上に退官まで15年間、民事・刑事事件の裁判から外され続けた。
福島裁判官も「青年法律家協会」の会員であり、この理不尽であからさまなパワハラが他の裁判官たちへの見せしめであったことは明白。
また、「イラク自衛隊派遣差し止め訴訟」の二審(名古屋高裁)で、高裁段階で初めて明確に「平和的生存権」を認めるという歴史的判決を出した青山邦夫裁判長が、判決直後に任期を二か月残して依頼退職したのも覚悟の上の行動だった事をうかがわせる。
青山裁判長は判決文の中で、憲法前文の平和的生存権について、「全ての基本的人権の基礎にあってその享有を可能ならしめる基底的権利であり、裁判所に対してその保護・救済を求め法的強制措置の発動を請求し得る具体的権利性が肯定される場合があると判断」されるとしている。
名古屋高裁の判決そのものは「イラク特措法」は合憲(ただし、航空自衛隊がイラクにおいてアメリカ兵等武装した兵員の空輸活動を行っていることは、イラク特措法2条2項、3項、憲法9条1項に違反するとの違憲判断)なので、形式的にはぎりぎりの所で国側の勝訴。
しかし、判決文の中で上記のように「平和的生存権」を明確に認めているので実質的には原告側の勝訴。判決自体は勝訴なので国側は最高裁へ上告できず、「平和的生存権」が国民の権利として確定する画期的判例となった。
その後、この判例が確定した事で裁判所は「門前払い」ができなくなり、「平和的生存権」を使った違憲訴訟は格段にやりやすくなっている。
福島裁判長と青山裁判長の以上の事例については、2018年にNHKが放送した非常に優れたスクープドキュメント「ETV特集『平和に生きる権利を求めて~恵庭・長沼事件と憲法~』」に一部依拠した。
現在、完全版がデイリーモーションにアップされています。
パワハラが日常化する裁判所
福島裁判長や青山裁判長の例を見るまでもなく、特に行政訴訟や労使対立による労働争議事件、思想・信条の自由に関わる訴訟など、政府や支配層に不利な判決を出されては困る裁判に関しては、行政側とその意を体した最高裁や裁判所長による下級審裁判官に対するパワハラ(圧力や干渉、左遷その他の脅し)が日常化しているのが実態。
裁判事例としては上記の他に、軍人軍属ではない民間人戦争被害者が国に補償救済を求めた訴訟(最高裁は「戦争被害受忍論」によってこれを却下)、原発再稼働差し止め訴訟、過労死や労災認定訴訟、公立学校での君が代斉唱時不起立教員に対する不当処分訴訟など多岐に渡る。
政府や最高裁の意に沿わない判決を出した裁判官は不透明な人事評価制度によって順当な出世コースから外されたり、降格・更迭されたり等のペナルティを被る(当然給料にも響く)事が分かっているので、地裁段階でも原告の側に立った判決を出しにくくなっている。
最高裁判事の任命制度の致命的欠陥と国民審査
最高裁が「三権分立」の原則を放棄して政府自民党を守る(「番人」ならぬ)「番犬」になってしまったのは、最高裁判事を内閣が任命するという現行制度自体に根本的問題がある事は明らか。
15名の現職最高裁判事は、安部(10名)・菅(5名)両内閣によって任命された保守派判事ばかりですから政府与党に忖度して不利な判決を出すはずもなく、高裁以下の下級裁判所の人事や判決内容などについてもその絶大な権力を駆使して、着々と与党化を進めている。「裁判官独立の原則」は、一体どこへ行ってしまったのか?
米国も日本と似たような任命制度(大統領が任命)を取っているが、日本と違って数年ごとに政権交代が起きるので、最高裁も保守派とリベラル派が拮抗してよい意味での緊張状態が続く事が多い。最近、再び問題になっている「中絶禁止法」など最高裁判事個々の判断が国民生活に直結するので、判事任命に対する国民の関心も高い。
ところが、日本の場合は戦後、自民党以外の政党が政権に就いたのは敗戦直後の片山内閣(1年間弱)、今日の自民党の「一党独裁」(一強他弱)状態を招いた悪法「小選挙区比例代表並立制」を導入した細川内閣(1年間弱)、阪神淡路大震災が起きた村山内閣(約1年間)、リーマンショックの後始末と大震災及び原発災害によって東日本壊滅の危機に瀕した民主党内閣(3年間)の僅か計6年間しかない。
あとの71年間はずっと自民党政権が続いた訳だから、現行任命制度の下で最高裁に「与党化するな」と言っても無理な相談だろう。日本の選挙制度は極めて政権交代が起きにくい設計になっているため、根本的に制度を変えない限り被害者や弱者が最後の頼みとする裁判所に救済を求めても救われない絶望的状況は今後もずっと続く。
最高裁判事の任命権を内閣が握っている事に諸悪の原因があるのですから、行政から独立した法曹界自身が最高裁判事を任命する制度に切り替えた方が遥かにましではないかと思われる。(国民と国会がチェック)
また、「信任しない」が毎回一桁台しかなく、完全に形骸化している国民審査も変える必要がある。最低限、✖以外を自動的に信任と見做す裁判官に有利な現行制度を〇✖記入方式に改め、✖の数が〇を上回ったら解任されるようにすべきだ。
国民の判断材料として審査対象となる裁判官がどんな判決を出したか、TV等で詳しく具体的に周知徹底させる制度を作る事も必要。審査も10年毎と、忘れた頃に審査するのではなく、5年毎程度に改めるべきだろう。
「民主主義や基本的人権が憲法の条文の中にしか存在しない」国日本
「違憲立法審査権」を事実上放棄する事で、日本を「民主主義や基本的人権が憲法の条文の中にしか存在しない」国にしてしまった最高裁の罪は極めて重大。
日本の「民主主義」のこれ以上の後退を許さず、「三権分立」を真に機能させ民主主義を更に前進させるためには、日本国民が国会や行政、メディアだけでなく、もっと裁判所にも関心を向けてその動向を注意深く監視・チェックし、不当な判決や決定に対しては声をあげて批判していく事が求められている。
映画『真昼の暗黒』(1956)
冤罪事件である「八海事件」(1951)を取り上げた今井正監督の独立プロ映画『真昼の暗黒』(原作正木ひろし「裁判官」)は、「国鉄三大謀略事件」のひとつ「松川事件」を題材にした山本薩夫監督の「松川事件」と並ぶ社会派映画の名作。
複数犯に違いないとする警察の見込み捜査よる犯人のデッチあげ、容疑者への拷問や自白強要、「偽証罪になるぞ」という脅しなど、人権を無視した強引な取り調べがドキュメンタリータッチで克明に描かれ、映画は硬派映画にしては異例の大ヒットを記録。この裁判に対するマスコミや国民の関心を大いに高めた。
公開時はまだ広島高裁で一度目の有罪判決が出された段階だったので、映画のラストは「まだ最高裁がある!」との被告たちの悲痛な叫びで終わっている。この後、最高裁の判決も二転三転。二度に渡る差し戻し審の結果、第三次最高裁判決で犯人が共犯者だと名指しした4人全員の無罪が最終的に確定。決着までに17年間もの歳月を要した異例の裁判だった。
裁判、及び最高裁に対する国民の関心がここまで高まったのは空前絶後。「4人の被告たちは冤罪」との世論の高まりは、迷走を繰り返した最高裁の判決に少なからず影響を与えた可能性がある。つまり、世俗から超絶した最高裁であっても世論の動向は無視できないという事だ。
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