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大きな荷物


「今夜、きっと大きな荷物が届くでしょう」

女は僕にたっぷり含みがあるような調子で語る。
僕は何のことだか全くわからないという眼差し、眉の角度、口角の上がり方で女を見つめた。
すると彼女は踵を返し、そこに甘いオークの香りを残し僕の前から消えてしまう。

 そして、今、僕の家に大きな荷物が届いている。
大きな荷物には宛先や送り主といった類の情報は一切記されておらず、配達されてきたような気配もない。
僕は今、仕事から帰ってきてそれを玄関先に見つけた時、なぜだか驚かなかったように思い返す。
そうか、そこに、つまりは僕の家の玄関先に大きな荷物が届いているんだみたいに、当たり前の出来事を当たり前な思考でもって処理をしたように記憶する。

 しばらく見つめている分には何も起きなかったのだけれども、首を締め付けない程度に締めるネクタイを緩めていると、困ったことが起きたみたいだなと突然に思う。
大きな荷物は大きいから玄関でつっかえてしまって、室内にいれることができないのではないだろうか。
例え首尾よく室内に運べたとしても、こんなに大きな荷物をどうすればいいのだろう。

 でも、とにかくこの大きな荷物を道路に面したこの場所から別の場所に移さなければいけないことは確かだろうと思う。
僕は、大きな荷物を壁を無意味に押すように押して玄関扉をいっぱいに開けるようなスペースをつくろうとする。
だけれど、大きな荷物は本当に壁のように高く、そして重い。
ほんの数ミリ動かすのも骨の折れる作業になる。

大きな荷物を押しているうちに、額から大きな汗粒が流れてき、こめかみのあたりを経由して頬のあたりに到達した。
汗が通った道程は、河川のように迂回しながら蛍光灯にきらりと光っている。
僕はジャケットを脱いで、シャツのボタンを数個外した。

 汗粒が首筋を伝う頃には、もう見境なく全身から汗が噴き出していて、汗のアイデンティーは平衡化されてしまう。
個々の汗として認識するモノは極端に減ってしまい、全身から噴き出る汗として認知されるようになる。

 子供の頃、青いバケツに水をいっぱい入れて振り回して遊んだことがある。
遠心力によって水はバケツからこぼれないわけだけど、もちろん頭上で振り回すのをやめたらバケツの水は僕に頭から降り注ぐ。
そして、僕はびしょびしょだ。
今、僕は吹き出す汗によってそんな感じにびしょびしょだった。
今衣服を軽く絞れば子供の頃使ったバケツは汗でいっぱいになるかもしれないな、とシミュレーションしてみる。

 時間の流れは全くわからなかった。
腕に嵌められた腕時計に目線をやったのは、扉をいっぱいに開くことに成功した時だ。
僕は一仕事を終えた安心感から、小さくため息をつく。
だけれども、安心するのはまだ早いことを理性ではわかっている。
次は大きな荷物を何とかして室内に押し込まなくてはいけない。
むしろこの後の作業の方が今までのより数十倍骨が折れるように思われた。
なにしろ、扉は大きな荷物よりも数倍小さいのだ。
僕は無理だと思いながらも、先ほどとは違う面を押して玄関に大きな荷物を近づけるべく奮闘した。
少しずつ、本当に少しづつ進んでいった。
もしかしたらトンネル工事で使われる掘削機の掘削スピードよりも遅いかもしれない。
次第に空気の質も変わっていく。
だんだんと硬く冷たくなっていく。
夜が更けていく。
月が傾いていく。

 僕が力を入れるたびに、扉がギシギシと音を立てるようになった。
玄関の方に回って確認すると、大きな荷物は扉と接触している。
ついに玄関までの運搬に成功したのだ。
それは良いとして、はてさてどうしたものだろうか。
どうやって室内に入れようか。僕はどうも行き詰まってしまったようだった。
何もいい案が思いつかない。

 今まで作業に没頭していて気が付かなかったが、僕は空腹だった。
昼に食べだ欧風カレーは胃袋に決して残ってはいない。
仕方がない、僕はそう思って家の中で一旦休むことにした。
だけれど、困ったことに僕はせっせと玄関扉を大きな荷物でみっちりと蓋してしまっていた。
空腹に気がついてしまった僕はあまりに非力であった。
とりあえず空腹を満たさないことには何も始まらない、そんな気持ちだ。

 牛丼特盛を食べたい。
そう一度考えてしまい、それが脳にこびりついて離れなかった。
口内はパブロフの犬も驚かんばかりに唾液が満ち満ちていく。
今すぐにでも牛丼屋に行きたい。
だけれども大きな荷物をこのままに、そして扉も開きっぱなしにしていくのはどうしても看過できなかった。
しかし、その問題は時間が解決してくれた。
無限に続くとも思われるその空腹感は、次第に飢餓へ向かっているのではないかという危機的錯覚にまで至り、最終的にはあらゆる常識的束縛をも打ち破ることとなった。

 僕は玄関先をそのままにし、大股で牛丼屋へと一直線に向かう。
道中においては、僕はただ牛丼を食らうためだけに生きていたので、信号はもちろん無視し数台にクラクションを鳴らされたらしいことも含め、ただ意識の憶測にあやふやに記憶されるだけだ。
夜も更け切った街に煌々と輝く牛丼屋がある。
僕は店内に入り注文を素早く済ませると、店員が牛丼を運ぶまでの間はただ牛丼のことだけを頭に思い浮かべている。

 牛丼特盛が店員によって僕の眼前の机上に据えられると、僕は勢いよくそれに食らいついた。僕は今、箸やスプーンといった類を使うことなく犬のように食らっているのではないかとも思える。

 数分と経たないうちに私は平らげた。
飲むように食べたからか満腹中枢は一向に刺激されなかったが、とりあえず食べ物が胃袋に落ち着いたという安堵から、自宅の玄関先のことが思い出された。
私は勘定を終え、勢いよく店を出た。
途中信号に道を阻まれ、僕は非常に焦る。
擬人化された危険が我が家に刻一刻と忍び寄っているようなイメージが想起され、居ても立っても居られなくなった。
最初は早歩きであったが、次第に小走り、そして全速力でダッシュしていた。
すぐに胸の辺りが熱くなり、息が上がっていく。

 全速力で走ったのはいつぶりだろうか、割と早い段階で先ほど胃に収めたはずの牛丼を戻してしまいそうになる。
気持ちの悪さを耐えながら走ることができなくなってしまい、僕は深く息を吸うのを意識しながらゆっくりと帰路に着く。
本当に情けない。
恐怖は今、玄関のドアノブを捻っているかもしれない。
そう思っては小走りし始めるのだが、五秒と経たないうちに吐き気が僕の足を引っ張ってくる。

 大きく深呼吸しながら、遠くに小さく見えていた家が大きくなってきた。
それと同時に大きな荷物もさらに大きな荷物にみえてくる。
この光景は僕がこの家を後にした時と寸分の違いもないように見てとれた。
僕はそこで安心した。
大きく肩を撫で下ろし、大きな荷物を背もたれにしてそこに座り込む。

 腕時計を見ると、とっくに日を跨いでしまっている。遠くの方で救急車のサイレンが響く。
冷たい空気を震わせている。
自分の吐く白い息は、どこまでも広がっていくようにみえる。
頭上の真っ黒い空には、欠けた月と一台の航空機だけだった。
意識がどんどん暗い頭上の深淵に引き摺り込まれていくような、大きな穴に落ちていくように思われてくる。
先ほどまで乱れていた呼吸はもう落ち着きを取り戻している。
視界が暗くぼやけてくる。
深淵に吸われていく意識は、もう自分の体を思い通りに動かすことはできなくなってしまう。

 瞼が開かれる。
夜が明けたばかりの薄く赤色が混じったような淡いブルーの空は、どこまでも透き通っている。
瞳はすんなりと夜明けの明るさを受け入れている。
どうして僕は外で目覚めたのだろう、一瞬間僕は疑問に思った。僕はゆっくりと身を起こすと大きな荷物がそこにあることに再び驚いた。
なんて大きな荷物であろう。
そうだ、もうこの段ボールをここで開けてしまおうと思う。
もしかしたら玄関を通れるような大きさの中身かもしれない。
いざ作業に取り掛かると、こんな簡単なことがなぜ思いつかなかったのだろうと嫌気がさしてきた。
僕は頑丈に貼られたガムテープを根気よく剥がしていく。
次第に段ボールの開閉部が顕になってくる。剥がしたガムテープをくるくると球体に整形したら、冗談抜きでサッカーボールぐらいの大きさになった。

 段ボールの中身がついに明らかになる。
大きな荷物とは何だったのか。
それは一枚のポストカードであった。
快晴の空、白波が立つ大洋、浮かぶ白い帆をもつ小さなヨット、そんな絵がプリントされている。
裏面を見ると、そこにはアルファベットが書かれている。

F*CK WAR

 僕は、まだ寝ぼけている目を擦りながら大きな段ボールとガムテープ製サッカーボールを両脇に抱え、家の中に入った。
フランス旅行でお土産として買ったエッフェル塔型マグネットでポストカードを冷蔵庫の扉に留めると、シャワールームに入って全身を泡立てる。
僕を不快にさせた汗は流され、排水溝に消えていく。
湯気がたつ身体を軽く拭きながら壁掛け時計を確認した。
あと三十分くらいは眠ってもよさそうだ。

そしてアラームをセットして、ソファで僕は軽く目を閉じた。


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