見出し画像

本を読むこと

 僕はタフでなければならないと思った。タフでありたいと願った。

 タフであることは結局のところ必要十分な条件で、そうでなければこの世間をうまく切り抜けられないということを親指を咥え、幼児向けアニメを食い入るように見、悟った。

 タフであるために、まず僕は身体を鍛錬することにする。

 市営のジムに毎晩通う。

市営ジムは三百円で二時間鍛えられる上、夜に至っては人はまばらであり、僕のような幼い男が一人トレーニングをしていたとしても咎めるものはいないという優れた場所だった。

ベンチプレス、スクワット、デットリフト、クランチをそれぞれ十回三セットこなし一息入れた後、ジョギングを三十分行う。

これをルーティンとした。

熱いシャワーを浴び、帰りは自転車を漕ぎながら鬱陶しい湿った海風を浴び、また一汗かいた。

 

精神的にタフであろうとも決意した。

市立図書館に入り浸り、僕は戦前戦後のありとあらゆる文学を端から端まで読んでいった。

太宰やスコットフィッツジェラルドといった、ナヨナヨしい文学に当たっては非常に辟易し、三島由紀夫の生き様には感嘆せずにはいられなかった。

空調は狂っているのか、滝のような汗が紙面に大きなシミを作った。

 太陽が昇るうちは精神世界で鍛え、月が顔を出すとジムに向かって自転車を漕ぐ。

蝉やコオロギ、キリギリスが永遠とも思うようにバトンパスを繰り返し、朝夕問わず虫たちの主張を繰り返す。

そんな毎日を初夏から晩夏に差し掛かろうとするまで続けていた。


ジムでは特段変化はなかった。

いつも決まったメンバーが決まったルーティンをこなしていた。

たかがこの程度の期間で筋骨隆々になるはずもなく、僕の身体は一向にタフになっているように見えない。

 一方、図書館には変化があった。

この生活を始めてから二週間ほど経った時、艶やかな黒髪の女の子が僕の向かいの席で本を読むようになったのだ。

その女の子は決まって『死に至る病』を大義そうに読んでいた。

ページを繰ると同時に垂れた髪の毛を耳にかけ直すのが癖で、僕はその様子を斜向かいの席から時折眺めていた。


今日、僕は本に集中できなくなっている。

僕は変わらず女の子を視界に含みつつ、『嘔吐』を読み進めようとした。

だけれども、いくら鈍感な人間であっても女の子に対するこの違和は感じずにはいられないであろう。

女の子はどうやら昨日までとは明らかに異質である。

今日の女の子はどうやら違う本のページを繰っている。昨日までのページの進み具合と噛み合わないし、本の厚みもいくらか違う。

そして、女の子の服装も既往までとは完全に異質だった。

どちらかといえばあまり特徴もない、いわゆるワントーンコーデといったようなペールトーンの服を着ていることが多かったが、今日は違った。

 女の子の身につけている深緑と白のストライプのコットン地のワンピースドレスはキャメル色のトレンチコートの部品が何の考えもなくめちゃくちゃにいくつか貼り付けられており、ふくらはぎの途中までの丈の濃紺の靴下にふわふわゴワゴワの黒いヒールブーツを合わせている。

さらに輪をかけて全く意味がわからないのが机上に半分だけになったジンが堂々と置かれているという事実だ。

どういう風の吹き回しなのだろうか。

僕の脳の処理が追いつくはずもなく、気がつくと女の子をとっても長い間見つめてしまっていた。

女の子は視線に気付いたのかこちらに目を向けた。

僕は女の子の背後にある本棚に目線を向けて、初めからそちらを見ていたような風を必死に装った。しかし女の子は依然、僕の方に目を向けている。

僕は意を決して女の子に目を合わせてみる。

 女の子の視線が僕の眉間の辺りを泳いでいる。そしてゆっくりと妖艶に輝く唇が言葉を発する。

初めて女の子から僕に向けられるであろう言葉。

僕は必然的に身構える。

「あなたはタフにはなれない。
あなたが考えている”タフである”ということは三島の自害とともに、広く一般的に言えば玉音放送がこの国に響き渡った時点ですっかりこの世界から消え去ってしまったんだから。
その証拠に三島の言葉は自衛隊に響かなかったわけだし、『われらの時代』の作中において手榴弾は何も成さなかった」

「やれやれ」

と僕は無意識に発していた。

静かな図書館にその言葉はただあてもなく彷徨う。

そして、瞬間にして身体から力が抜けていく。

「確かに、君のいう通り最近は犬だって空調の効いた鉄筋コンクリートの中でキャンキャン泣いているし、街ですれ違う時いつも首輪をつけている。
これは憂うべき惨状だよ。
こんなのって悲劇だね、チャップリンもひっくり返っちまうだろうね」

「つまりは"やれやれ、参ったな。こんなはずじゃなかったな。井戸にでも籠って頭を冷やそう”ってことなのかもね。
お気の毒だけど」

それだけ言い残すと、女の子は開いていた『存在と時間』をそっと閉じ机上に置くと、ジンを右手に持ち大きくゆらゆらさせながら図書館を後にする。

 女の子は絨毯に形而上的に非常に重要な足跡を残していった。

何かの象徴かもしくは記号か、足によって撫で付けられて横になってしまった絨毯の毛は、何だか力無く縮こまっている体毛みたいだ。

僕は女の子をただ目で追うことしかできない、それがとても情けない。

気がつくと身体中の毛穴からブワッと大粒の汗が噴き出してくる。

汗は額から頬をつたい、そして机上に落下し音をたてた。

心臓は激しく伸縮し、大量の血液を身体中に送り出す。

体温は際限なく上昇していくように感じられる。

身体は自身の思いとは全く乖離して、力が込められなくなってしまっていた。

この場から、椅子から動き出そうと四肢の筋肉に神経系が電気信号を送ったとて応答はなし。

外的な圧力なんてなにも受けてやしないのに、大人しく席についたままなんて。

こんなの何かの寓話みたいじゃないか、最終的になにも教訓が残らない点に目を瞑ればさ!



………………….

最後まで読んでいただいてありがとうございます!

ぜひこちらもご覧ください!





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?