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曖昧、だから好き


先日友人と奈良に遊びに行ってきた。

奈良に鹿を観に行く会、という企画だったが、6月上旬にしてすでに真夏の日差しを感じる1日だった。

私は関西地方に生まれ育ち、奈良公園の鹿の存在は子どもの頃からよく知っていた。

そして、街中でウロウロと歩き回る半野生の鹿たちの様子を見ては、いつも不思議な気持ちになる。

『なぜ、あの鹿たちは何の囲いもない所で自由に過ごしているのだろうか。』

例えば、動物園に行けば、まず動物園に入るために入場ゲートを潜る必要がある。

そしてさらに、動物たちと、それを観覧する私の間には頑丈な檻がある。

はっきりと明確に境目がある。

動物たちとの触れ合いコーナー、みたいなものが動物園にはあったりもするけど、それでさえ、触れ合いコーナーという場には檻とはいかずとも仕切りがあるし、そもそも動物園の入場ゲートを潜っていかないと辿り着けないわけである。

それなのに、奈良の鹿ときたら、本当に笑ってしまうくらい、何の仕切りもない、檻もない、街中至るところにいる。

街の中で完全に同居しているのだ。

駅から出ればすぐそこに居てる日もあるし、車がひっきりなしに通る大きな道路を平然と渡っていたり、お土産物屋さんの店頭で涼んでいたり、国宝級の所蔵物がわんさかある国立博物館の建物の真横で涼んでいたりする。

奈良を訪れた事のない人は、奈良の鹿は奈良公園にいる、と想像するかもしれない。
それは、半分正解で、半分不正解だと私は思う。

確かに基本的には芝生で覆われた広大な奈良公園を生活の中心スペースとしているけど、実際には、奈良公園周辺の道路、歩道、お店、建造物、全てに出没する。

だってさ、どこにも仕切りがないんだもん。
ここから先へ行ったらダメだよ、っていう明確な境界線が全くない。

奈良という街は本当に不思議で、とっても曖昧なのだ。

人間と獣の居住スペースの境目がとても曖昧で、なんとなくそこで生活する人たちはそれを楽しんでいるような気がしてならない。

奈良に住んでいる友人知人らがよく自慢話として聞かせてくれるのは、こんな話だ。

「バスに乗ってたら信号もないのに急にバスが停車してさ。鹿が横断中ですのでお待ちくださいってアナウンスが入るねんで〜」

都心でそんな事あったらみんなパニックになるだろうな、、、

奈良という街は本当にそんな感じで、鹿が巻き起こす出来事にとてつもなく寛容であたたかい。

私も実際に目の前で鹿が数匹道路を横切り車が何台も停車するシーンを見ているが、誰一人クラクションなんて鳴らさないし、全く驚きもしない。

他にも、鹿は街のあちこちでポロポロとした糞を落としていったりするから、時々かわいいカフェの近くに糞が落ちていたりもする。

それも誰も文句言わない。

歩いてたら、靴の裏の溝にウンコいっぱい付くけど、それも気にしない。

みんな奈良で生まれ育ったからそうなのかしら?と思ったりしたが、東京から奈良に越してきた人だって、そういうものだから、と数年経たないうちに何にも文句を言わなくなっていた。(例外はあるだろうが)

ふと考えてみる。
もし今日から自分が住んでいる街が同じような状態になるって言われたら、結構なパニックになると思うわけだ。

明日から、毎朝乗っているバスが鹿の横断のせいで遅れたり、朝玄関から出たら糞が落ちていたり、道を曲がったらそこに鹿がいたり。

結構なパニックになるだろう。

でも、奈良という街はそれに全く動じない。
鹿と人間の境界線が曖昧である事を楽しみ、それを誇らしげに語ってしまうのが、奈良という街なのだ。


そんな奈良という街について思いを馳せるうちに、昨今よく聞かれる『分断』という言葉が頭を横切った。

最近では世界的な情勢、経済的側面など、あらゆる場面でこの『分断』という言葉がよく用いられている。

しかし、世界情勢や経済など、大きな潮流に対して分断という言葉を用いると、どこか遠い出来事のようで実感が湧かない。

でも、奈良の街に出かけた後、『分断』という言葉を聞くと、とても身近な言葉に感じられるようになった。

奈良には分断がないのだ。

分断がない、という表現は適切ではないか。

なんと言うか、奈良という街を体感すると、あれが分断されていないという事なんだな、と心から納得がいく。

奈良の何を知っているんだ、と実際に住んでいる人から言われると何も言えないが、外側から見た時、あれこそ分断されていないお手本のような状態だと思えるのだ。

分断されていない。

それは区別がないとか、違いがないとか、そういう事でもない。
人間と鹿、という明らかな区別も違いもある。

けれども、どちらもお互いを尊重している。
それが、『分断がない』と私が感じた要因だ。

奈良では人間と鹿が、互いに生活スペースを共有している。
ここは人間のもの、ここは鹿のもの、という境目がない。

それを明確に決めなくとも、互いが相手の生活を尊重するから、あの共存が成立しているのだ。

実は、奈良の人に聞くと、本当に急いでる時はクラクションを鳴らして鹿を追い払う時もあるらしい。
鹿避けの柵を作って、自宅の庭に入らないようにしている場合もある。
でも、そうじゃない人もいる。
鹿の方も、観光客が少なすぎると鹿せんべいがもらえなくて、お店の物を食べにきてしまったり、観光客のお弁当を狙ったりしちゃう。

実は、何もかもがうまくいっているわけじゃないし、完全に平和なわけじゃない。

お互いに相手の事が好きなのかどうか、それも曖昧。

鹿が人間に追いかけられて衰弱死した事もあるし、車に轢かれた事もある。
鹿のツノが長い時期はすごく危険だし、妊娠中の鹿に近づくと蹴られる事もある。

それでも、明確な境界線は作らない。

それぞれがどうしたいか、どんな風に相手と関わりたいか、それでいいって。

奈良はずっとそういう街のまま。

そうやって分断される事なく、いまだに人と獣が共存している。

とっても不思議な街だ。

そういう曖昧さが、私はとても好きだ。

こんなに鹿の話しといてなんだけど、別に鹿が好きなわけでもなんでもない。

動物全般、そんなに好きでもない。

何度も鹿に出会ってはいるが、一度も触った事ないし、鹿せんべいあげても絶対に手を舐められたくない。

それでも、奈良に行って鹿の存在を感じると心がホッとする。

私は人からめちゃくちゃ好かれるわけでもない、私も大して人を好きでもない。

相手に絶対的な信頼感を抱いているとか、そんな純粋さももはやない。

それでも誰かと共存しながら生きる事が好きだ。

相手の狡さとか弱さとか。

そういうのを尊重する。

その関係に完璧さなんてなくて、いつだって形は曖昧で。

それでもその曖昧さを楽しむ。

分断しない。

それが好き。

私は奈良の鹿を見ながら、そうやって自分と人との関係に納得しているのかもしれない。











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