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「いいこと」の裏側を考える。

私も、約2年かけて、髪を伸ばしてヘアドネーションをしました。
周りからも「きっと喜ばれるよ」と言われ、頑張ってきた自分に満足していました。
しかし、それはとても自分勝手な考えだったことが、この記事でわかりました。

"アメリカでは「いいことをした」というような雰囲気はない。"

"「ウィッグが手に入れば髪の毛がない人は喜ぶに違いない」と思いこむ"

"髪の毛がない人たちはできれば自分の毛を生やしたい"

"髪の毛がないと社会生活が困難だと感じるから"
私たちの決めつけが、困難にしていたんです。

"「私はヘアドネーションをした、いいことをした」だけでは本質的な解決ではない"

"髪の毛があることは素晴らしいと、マウンティングのジャブを打ち続けている"

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ヘアドネーションを行った後、私は良いことをした。という自分がいたことに気付きました。
しかし、それは、「いいことだ。」と胸を張って言えることではなかったのです。

たしかに、ヘアドネーションをすると決めた時には「きっと喜んでもらえる、誰かの役に立つ」と思って始めました。でも、それ自体が上から目線の考えだったんです。

ウィッグがなくても生えるなら、生えてほしい。それが困難な状況にあるんです。
その困難な状況を作っているのは、まぎれもなく、私たちです。
髪の毛があって当たり前、なんて考えを持っているからこそヘアドネーションを「いいこと」だと思い込み、ましてや「髪の毛が生えない人たちがかわいそう」などというレッテルを貼ってしまっているんです。

マウンティングのジャブと言う言葉を見て、
私は自分の行ったことが恥ずかしくなりました。
もちろん、誰かの役にたったのなら、それはそれで良かったのかもしれません。
しかし、ヘアドネーションの根底にある問題はヘアドネーションをする、しないに関わらず、残っているのです。

ウィッグをつけなくても、その人の個性だと受け入れる世の中にならなければいけないと思いました。
マイノリティを受け入れることが一番大切なのではないかと、改めて気付かされた記事でした。

誰かの役に立ちたい。と言うのは
もちろん素晴らしいことだと思います。
しかし、かわいそうだから、必要としていると思うから、と言った軽い気持ちの行為は、逆に、相手を傷つけてしまっていたのだとわかりました。

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