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共作小説【白い春~君に贈る歌~】第3章「繋ぎとめるもの、思いとどまらせるもの」③

繋ぎとめるもの、思いとどまらせるもの【エッセイ】


 インドカレーが好きである。
 特に好きなメニューはバターチキンカレーだ。チーズナンとサフランライス、そして野菜にオレンジ色のドレッシングも添えてあるのが最高である。
 ああ思い浮かべるだけで唾液が分泌されてくる。ここ数年食べていないから、無性に食べたくなる。

 東京に住んでいた頃、隣の駅近くに行きつけのインドカレー屋があった。
 そこへ友人や恋人をよく連れて行き、夜遅くに一人で食べに行くことも多かった。頻繁に通っていたときは、週に一回はバターチキンカレーを味わっていたものだ。

 そのため、インドカレーにはたくさんの思い出が沁み込んでいる。その中でも特別なものは、二十歳のある夜のことである。

 アパートの近くにある大通りの歩道で、私は車の流れを眺めていた。
 恋人に必要とされなくなった夜だった。もう居場所がなかった。彼女を守ることが、私の存在する理由だったのだ。
 これまでも彼女が襲われる恐怖に、ずっと怯えていた。汚れた世界。汚れた人々。どこに行っても、何をしていても、それは私をつきまとって離さない。彼らの影は私の首をいつも両手で掴んでいる。意識する度に、その手は力を込めて絞めつけてくる。
 もう耐えることはできない。何もかもが怖かった。私は生きていても報われない。もうここで、終わりにさせてくれないか。 

 どの車がいいだろう。私の命を上手に攫ってくれる車。できれば事故によるものだったと思われるようにしたい。そうすれば周囲の悲しみは、自死よりいくらか少ないだろう。また、中途半端だと後遺症が残ってしまうため、それは避けたい。一発でどん! と思い切り撥ねてもらいたい。その先は真っ白な世界か。真っ黒なのか。どちらでもないのか。どうであっても、今よりはいいだろう。それを実現してくれそうな車とタイミングを考えていた。

 どれだけの時間、そこに立っていただろうか。体はずっと震えている。
 もうどの車でもいい気がしてきた。

 あ、来た。

 これだ。

 決意を固める。

 が。

 ……足が前へ出ない。車道へ飛び出せない。どうしても、父と母の姿が頭にちらつくのである。消えてなくなりたいのに、それができない。

 ああ、まだ一線を超えられるほど自分は苦しんでいないのか。この闇が本物ではないのなら、もっと傷つかないといけないのか。なんて中途半端なのだろう。格好悪い。情けない。

 彼女の両腕には無数の切り傷がある。それがとても愛しくて羨ましかった。リストカットやオーバードーズは、ある種の苦しみの象徴に思え、その数が心の傷の大きさを測るもののように感じていたのである。
 会う人会う人の手首や腕を見て、人の心をのぞき見しているような気分になっていた。私もそうしなければ特別にはなれない。気づいてもらえない。しかし、カッターを取り出しても、親の姿が目に浮かび躊躇ってしまう私は、偽物なのだ。哀れで滑稽で、激しい劣等感に襲われる。

 そうだ。両親が私を大切だから悪いのだ。どうせなら見放してほしい。そしたら、どれだけ楽なのだろう。幸せだと思われないですむし、幸せを知らないでいられたはずだ。
 親が証明してしまったのである。私は確かに愛を受け取っていることを。受け取るべき存在であると。
 私が消えてしまうことよりも、親の悲しみを思う気持ちが勝ってしまうのだ。

 私はどうすればいいのだろう。
 この世は、どこにも出口のない地獄である。
 逃れられない現実に絶望しながら、とぼとぼと歩き始めた。

 気づくと、インドカレー屋にいた。食欲なんてないのに、いつものバターチキンカレーを注文している。
 料理が運ばれてくるまで、何もせずにテーブルを見ていた、ような気がする。明らかに放心状態だった。
 我に返ったのは、カレーを口に含んだときだった。

 ああ、私は生きているんだな。
 当たり前なのだが、そう思った。
 すると突然、涙が溢れて止まらなくなった。

 私をこの世に繋ぎとめるもの。思いとどまらせるもの。いつもすぐそばにあったのに、遠く遠くに感じられるもの。世界は闇でも、絶対に闇にはならないもの。
 その輪郭が浮き彫りになって、叫びたい衝動に駆られた。

 あの衝動と一緒に飲み込んだインドカレーは、そのときの時間と思いを、ぼんやりとだが記憶している。
 カレーの味と共にあるわけでなく、食べて真っ先に思い出すわけでもないのだが、今の自分がいる出来事として、付かず離れずそこにある。

 そして現在、こう思う。
 子どもたちに私のような思いをしてほしくないけれど、もし彼らが人生に絶望したとき、思いとどまれるような存在になりたい、と。
 君たちのお祖父ちゃんとお祖母ちゃんがそうしてくれたように。

 そんなことを考えていたら、またあのバターチキンカレーを食べたくてたまらなくなるのである。





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