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代償

 今から二十年前のオスプレイの墜落に私たちは感謝しています。

 とてつもない代償でしたが、私たちは本当に感謝しています。

 操縦していたパイロットは「美しく光る月を見ながら操縦していたらいきなり妖しい光に包まれ水平方向に回転しながら首里城の御庭(うなー)に墜落した。何かに操られているように全く作動しなかった」と言っていたそうです。タービンから出る高温の排熱で首里城を焼き尽くしながら、全員が猛り狂う炎の下を這いつくばって守礼の門の前まで逃げ、天まで燃える火を茫然と見つめていたそうです。

 しかし、結果としてあの墜落が私たちが長年求めていた平和と安らぎをもたらしたのです。

 毎日、時間と場所を選ばずに私たちの上空を飛んでいたオスプレイ。22年前にヤンバルの安和地区の海岸に墜落した時は「不時着した」と表現した大手メディアさえありました。今も当時の写真を見るとあれが不時着なら墜落とはどのような状況を言うのだろうかと誰しもが疑問に思うはずです。さらに米軍のトップは「民家のない海に誘導したパイロットを誇りに思う。沖縄県民も彼を称えるべきだ」と言ったそうです。

 しかし、今から20年前の2019年10月31日午前2時40分頃に首里城に墜落したオスプレイは沖縄、いえ数百年の歴史を持つ琉球国のほとんどの文化遺産を焼き払いましたが、代わりに全国民的な平和を求める運動を起こし、どうせすぐに沈静化するだろうとたかをくくっていた日本政府よりも世界中のメディアと、何よりも墜落したオスプレイに乗っていた乗員全員が目の前で炎に焼かれる首里城の激しく泣き叫ぶ声を聞き、取り返しのつかないことをしてしまったとメディアに話し、アメリカの市民も彼らが流す正直な涙と悔やむ叫びに呼応し世界遺産の損失の責任に気づき行動を起こしてくれたことが、沖縄から全ての米軍基地が撤退したきっかけになったのです。そして今日、嘉手納基地に残っていた最後の米軍機がアメリカへ帰って行きました。目視で米軍機が見えなくなると知事の合図で一斉に金網が倒され楽器を持った子供達が演奏しながら入って行きました。ここは広大な公園になる予定で、先に返還された普天間基地やキャンプシュワブなどは住宅街やショッピングモールになっています。

 首里城の全てが焼失してしまうということが、アメリカの全てが沖縄から消えていくということの引き換えになったわけです。

 あの日、私たち沖縄県民の悲しみはとてつもないものでした。翌朝のヘリコプターからの映像を見て私たちは言葉もありませんでした。高熱で溶けた赤瓦と真っ黒の灰。そこにかぶさるように全く損傷していないように形を残したオスプレイ。自らの機体の熱で全てを焼き払いながら自身は今にもこの場から飛び立とうとしているようにさえ見えました。アメリカが調査に入ろうとしたのを沖縄県警が拒否しましたが日米地位協定がある中で初めてのことでした。警察の人たちも首里城を炎上させるというのは許せなかったのだと思います。

 あれから20年、多くの苦難がありましたが首里城の再建と沖縄からすべての米軍基地が無くなったのです。生きているうちにこれほどの嬉しいことを体験できるなんてありがたくて、ありがたくて。首里城全焼という代償はあまりにも大きかったのですが、首里城が全焼するのにはそれに見合う、アメリカ軍基地全面返還が必要だったのです。かつての武器を持たない平和だった琉球国に一歩近づきましたよ。皆さん、是非とも遊びに来てくださいね。
                              完

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