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本能寺の変 1582 光秀の苦悩 4 20~31 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

光秀の苦悩 4 粛清の怖れ 

*20~31は、バックナンバーです。

20 信長は、無駄を嫌った。

 佐久間信盛の一件。
 石山本願寺、退城。
 伽藍炎上。
 信盛の油断である。  

21 そもそも、大坂攻めの総指揮官は塙直政だった。

 「木津を取り侯へ」
 その直政が討死した。
 信長は、信盛に直政の後任を命じた。 

22 本願寺との戦いが終わった、今。

 信長は、畿内軍の再編成を考えていた。
 信長は、信盛を選から外した。
 信長は、織田家の将来を考えた。
 信長は、信盛を叱りつけた。
 その時の折檻状である。
 信長は、長い間、我慢していた。
 信盛は、そのことに気づかなかった。

23 信長は、光秀を褒め称えた。

 光秀は、家臣らの手本だった。
 信長は、報告を重んじた。
 信長は、光秀の報告のあり方に満足していた。  

24 佐久間信盛は、別格の存在だった。

 信盛は、七ヶ国の大軍勢を率いていた。
 信長の忍耐も、限界に達していた。
 信盛は、「武」より「財」を優先した。
 信長は、信盛が他の家臣たちへ悪影響を及ぼすと考えた。 

25 信長は、誇り高い男であった。

 そして、執念深い。
 信長は、信盛の息子、信栄の行状に呆れ果てた。

26 信盛は、光秀と真逆の人物だった。

 武将としても。
 所領の扱いについても。
 与力・家臣の扱いについても。  

27 信長は、光秀を見習えと言っている。

 これが、信盛の生き方だった。
 信長は、それを見ていた。
 信盛は、油断した。
 三方ヶ原の合戦。
 しかし、信盛は、戦わず。
 信長は、信盛に疑念を抱いた。
 信長は、面目を潰された。  

28 信長は、信盛を切り捨てた。

 信盛は、不意を衝かれた。
 そして、追放。
 信盛は、全てを失った。
 フロイスの証言である。
 この事件は、光秀に大きな影響を与えた。

29 信長は、恐ろしい男なのである。

 信長は、絶対専制君主。
 口答えなど、以ての外なのである。
 信長は、信盛を粛清した。
 走狗煮らる。
 光秀は、この光景を目の当たりにした。  

30 信長は、最後まで、信盛を赦さなかった。

 信盛は、逐電した。
 信盛は、失意のうちに亡くなった。
 これが、織田家重臣筆頭者の末路である。
 多聞院英俊もまた、歴史の証人であった。

31 光秀は、奈良にいた。

 そこで、信盛の死を知った。
 光秀の苦悩は、次第に大きくなっていく。
 信長は、命に逆らう者を容赦しない。
 高野滅亡、時刻到来か。
 「摂津伊丹の牢人ども」
 高野山は、抗戦の姿勢を見せた。

 

          ⇒ 次回へつづく 


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