見出し画像

本能寺の変 1582 信長の甲斐出陣 3 127 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

信長の甲斐出陣 3 信長、出陣 

信長は、わずか一月で四ヶ国を手に入れた。

 駿河・甲斐・信濃・上野。

 二月三日、信忠の先遣隊、出発。
 同十二日、信忠自身の出陣。
 そして、三月の今。
 わずか一月である。
 
  駿・甲・信・上野、四ケ国の諸侍、
  有縁をもつて、帰参の御礼、
  門前(信忠の)、市をなすなり。
                        (『信長公記』)

信長の勢威、恐るべし。

 最早、逆らう者など、誰もいない。

光秀は、まだ、この光景を知らない。

 信長の勢威が、これ程までだとは思っていなかった。

信長の勢威は、丹波では通用しなかった。

 考えても見よ。

 天正三年1575。
 五月、長篠の合戦で勝利。
 八月、越前の一揆を殲滅。
 九月、丹波攻略、始まる。
 
 光秀は、信長の勢威を背景に、丹波に入った。
 なるほど、最初は、調子が良かった。
 ところが、急転。

 天正四年1576。
 一月、波多野秀治が裏切った。
 光秀は、大敗を喫し、九死に一生を得た。

 天正七年1579。
 丹波統一、成る。
 天正八年1580。
 丹波一国、拝領。

 長い戦いだった。
 光秀には、そのような経緯があった。

 それ以来、今日まで。
 光秀は、合戦から遠ざかっていた。
 長いブランクがあったわけである。

光秀は、甲斐攻めが長引くものと思っていた。

 それ故、そう簡単に片付くとは思っていない。
 そのこともあって、兵の数を多く率いて来たのである。


          ⇒ 次回へつづく



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?