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本能寺の変 1582 光秀の年齢 2 135 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

光秀の年齢 2 柴田勝家と滝川一益 

光秀は、現役の戦国武将。

 光秀は、第一線に立つ指揮官である。
 大軍勢を率いた。
 長期の遠征。
 長期の戦い。
 激戦の日々。
 包囲・攻撃・追撃・掃討、等々。
 野陣・長陣、風雨・降雪の日もあっただろう。
 食糧事情・衛生問題、等々。
 正に、体力勝負。
 戦い以外で、死亡する者たちも多くいたものと思う。
 過酷な任務だった。

 天正四年(1576)。
 石山本願寺との戦い。
 自身、陣中で大病を発症した。
 暫し、死の淵を彷徨。
 辛うじて、蘇生した。
 その様なことも、あった。 

 「老人」には、相応しからぬ役目。
 しかも、長期に亘ってなど。
 出来ぬことである。 
 光秀は、そうなる手前の年頃だったのだろう。
 ならば、「老人」とは、・・・・・。

中国攻めは、既定の作戦だった。

 信長は、毛利の出方を待っていた。
 信長は、来秋を予定していた。
 光秀も、同じである。
 それ故、そのつもりでいた。

 これらについては、後述する。

光秀には、気力・体力・行動力があった。

 中国攻めは、光秀が、これまでに経験したことのない、
 大規模な長期大遠征となる。
 光秀は、それが出来た。
 それを遂行し得る、気力・体力・行動力があった。
 その様な年頃だった。


          ⇒ 次回へつづく



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